地図の隅、翻訳できない筆跡

──平成0x29A年03月01日 23:50

 第二庁舎の蛍光灯が、寿命間近の羽虫のように明滅している。手元の端末には「第402ヘゲモニー期・特別監査アルゴリズム」による赤字の警告ログが滝のように流れていた。
「恵、背中が丸まってるよ。シャキッとしな」
 視界の端に浮かぶ祖母のエージェントが、ARグラス越しに小言を飛ばす。深谷トヨ、享年八十二。生前はこの地域の民生委員として、自転車で路地を駆け回っていた人だ。死後十年経っても、その口うるささは健在である。
「おばあちゃん、今は姿勢の話じゃないの。この案件、今日中に処理しないと支給が止まる」
 私はため息をつきながら、自動翻訳イヤホンのノイズキャンセリングレベルを上げた。カウンターの向こうには誰もいないが、イヤホンからは常に多言語の問い合わせ音声が流れ続けている。申請者の九割は、生活基盤の脆弱な移民労働者か、制度の狭間に落ちた高齢者だ。イヤホンの合成音声は、彼らの切実な訴えを「要件定義エラー」「感情パラメーター解析不能」という無機質な日本語に変換してくる。

 時刻は三月一日の二十三時五十分。
 党ドクトリンの解釈変更により、住所不定者の居住実態確認プロセスが厳格化された。ブロックチェーン上のデータ照合で済むはずなのに、システムはなぜか「物理的な痕跡」を要求する。平成エミュレーションの悪癖だ。
「ほら、そこ。佐藤さんの家の裏手は、昔は井戸があったんだ。湿気るから人が住むには適さないよ」
 祖母が端末の地図データに文句をつける。
「データ上はアパートが建ってることになってるの」
 私はデスクの脇に積まれた分厚い冊子に手を伸ばした。タウンページと呼ばれる、電話番号と氏名が羅列された紙の電話帳だ。数年前の版だが、監査局はこれを「正当な補助資料」と定めている。ずしりと重いその塊をめくり、指先を黒くしながら該当の住所を探す。紙の摩擦音だけが深夜のフロアに響く。
 ない。記載がない。
「電話帳にも載ってないんじゃ、実態なしかもしれない」
 私は監査フォームの「停止」ボタンに指をかけた。これで一件落着、私の残業も終わる。しかし、祖母が「待ちな」と鋭い声を出した。
「あそこはね、載せてないだけだよ。借金取りから逃げてる若いのが隠れてたんだ」
「いつの話よ。おばあちゃんが死ぬ前の話でしょ」
「確認しなさい。棚の奥、青い表紙のやつ」

 言われるままに、私は背後のキャビネットから古い「住宅地図」を引っ張り出した。ボロボロの表紙を開くと、カビと古い紙の匂いが立ち上る。指定された区画のページを開く。
 そこには、ボールペンで小さく書き込みがあった。
『見守り必要。火曜日にパンを届けること』
 祖母の筆跡だった。生前の彼女が、制度の網からこぼれ落ちそうだった誰かを、手書きのメモで繋ぎ止めていたのだ。
 自動翻訳イヤホンが、耳元で「処理時間を超過しています。推奨アクションを選択してください」と無感情に告げる。
 二十三時五十五分。庁舎内に「蛍の光」の合成音声アナウンスが流れ始めた。チープなMIDI音源が、無人のロビーに反響する。
 私は「停止」ボタンから指を外し、「要・現地再調査」の項目にチェックを入れた。それは単なる先送りで、私の明日の仕事を増やすだけの行為だ。それでも、この筆跡を無視して「不在」と断じることはできなかった。
「……あんたも、お人好しだねえ」
 祖母の声が、少しだけ柔らかく響く。
 私は住宅地図を閉じ、重たい電話帳を棚に戻した。画面上の警告灯は消えないが、不思議と焦燥感は薄れていた。この歪な世界で、私たちはまだ、誰かの書き残した余白の上を生きている。