巻き戻しの指が覚えている

──平成0x29A年01月25日 06:20

シャッターの鍵穴に、夜の冷えが残っていた。

平成0x29A年の一月は、毎年同じ匂いがする。消毒用アルコールと、段ボールの紙粉と、誰かが置き忘れたコーヒー。

商店街の端の「ミナト電器リユース」。俺は開店前の棚卸し担当で、朝六時二十分から、空中ディスプレイを点ける。

レジ上の薄い膜が、ふわっと立ち上がる。透けた画面に、昨夜の売上と在庫差分が浮く。

《差分断片:VHS再生機の販売を“危険物”扱いに変更》
《提出元:第402ヘゲモニー期・消費安全系 内閣ユニット群》

「またかよ」

声に出したのは、冷えた店内に自分の呼気を落ち着かせるためでもあった。

耳元のエージェントが、いつもの母じゃない声で返す。

『危険“物”ではなく、危険“者”だろう。販売員の資格を確認しろ』

「……それ誤訳だって」

今日は母の倫理検査日で、代理が付いてる。名札には《代理:S-β12》って出る。話し方は丁寧だけど、俺の呼吸の癖を知らない。

VHSテープは危険物じゃない。磁性体だし、劣化してカビるけど、爆発はしない。

棚の最下段、プラケースに入った『平成の運動会’03』のラベルが、懐中電灯の光を鈍く返した。テープの背に、指の脂が残ってる。誰かが何度も抜き差しした跡。

空中ディスプレイの右上で、店のデジタルツインが呼吸している。小さな立体模型の店内に、俺の位置が点で表示され、棚の前で止まる。ツインの棚はきれいに整列していて、現実の棚ほど埃っぽくない。

『ツイン上の在庫は“ゼロ”だ。現物は不整合だな』

「現物はここにある」

俺はケースを一つ、手のひらで温めるみたいに持ち上げた。プラが冬の朝みたいに硬い。

スマホはガラケー形の業務端末だ。折りたたみの内側に、iモードサイト風の簡素なUIが出る。文字だけが速い。

【党ドクトリン署名要件:危険物分類変更・要アルゴ署名】
【暫定:販売停止】

「アルゴ署名、要るってさ。誰がやるんだよ」

『内閣ユニットの首相が五分だけ決める。お前が当たる可能性もある』

「当たったら、うちの店のVHSが全部“危険者”になるのか」

代理は、そこで黙った。黙り方が、妙に人間くさい。

開店準備のチャイム代わりに、棚の裏で古いビデオデッキの通電音がした。昨夜、買取に出たやつをテスト中だった。モーターが回る、低い唸り。

表の道路から、配達の小型車が止まる音。段ボールを抱えた配達員が、入り口のガラス越しに会釈してくる。

「おはよう。いつもの、レトロ系の交換部品?」

配達員は首をかしげて、端末を見せた。

「いや、“危険物回収”って出てる。VHS関連、全部。今朝から」

俺は空中ディスプレイを見上げた。差分断片の通知が、一つ増えている。

《回収実行:即時》

代理が、さも当然みたいに言う。

『危険“者”の回収だ。販売員を——』

「だから誤訳だって」

喉の奥が熱くなって、俺は言い切った。声が店の天井に当たって戻ってくる。

配達員は困った顔で、「回収は規定です」とだけ繰り返した。

俺は、デジタルツインを指で拡大した。ツインの俺が、棚の前で手を上げている。ツインの棚にはVHSが無い。つまり、ツインの世界では、もう回収は終わっている。

現実の棚の奥に、テープがまだ残っている。

俺は『平成の運動会’03』を胸に抱え、ビデオデッキの前に座り込んだ。配達員が「ちょ、ちょっと」と言う。

「回収するなら、先に確認させて」

言いながら、俺はテープを差し込んだ。手が勝手に動く。ガチャン、と吸い込まれる音。

画面は店の奥の小さいブラウン管。空中ディスプレイじゃなくて、ガラスが厚い、あの重いやつ。砂嵐の後に、校庭の白線が出た。風で旗がはためく。

運動会の音声が、スピーカーから少し割れて流れる。

「……これ、俺だ」

赤白帽の少年が、転びながら走って、立ち上がって笑っている。カメラの向こうで、母の声がする。「転んでもいい、前見て!」

代理が、遅れて息を飲むように言った。

『その声……翻訳できない』

「翻訳すんな」

俺は巻き戻しボタンを押した。テープが逆走し、キュルキュルと小さく泣く。指先に、ボタンの凹みが当たる。確かにここにある感触。

空中ディスプレイに、回収完了のカウントダウンが出た。ツインの店では、棚がもう空になっていく。

配達員が段ボールを開け、回収袋を広げる。

俺はテープを抜いた。まだ温い。プラケースに戻して、胸ポケットに入れた。

その瞬間、耳元の代理が、小さな声で言った。

『“危険者”は……お前かもしれないな』

俺は笑いそうになった。笑ったら、泣くのと同じになる気がした。

「そうかもな」

店のデジタルツインは、何事もなかったように整った棚を映し続ける。

でも俺のポケットの中では、VHSの角が、冬の朝の硬さで掌に当たり続けていた。