クリスピーな署名、共有された熱量

──平成0x29A年05月18日 18:00

 平成0x29A年五月十八日、十八時。工場のスピーカーから、ひどく劣化した音質の『夕焼け小焼け』が流れ始めた。第百八食料生産区、第三培養プラント。ここはかつて精密機械を作っていたらしいが、今は国民の胃袋を満たすための「合成蛋白質(プロテイン・ブロック)」を練り上げている。

「剛、またアンタ、変なこと考えてるね」
 視界の右端、ARウィンドウに映る祖母のエージェント・ウメが顔をしかめた。白割烹着姿の彼女は、私が子供の頃に死んだ本物の祖母よりも少しだけ解像度が粗い。
「仕事だよ、ばあちゃん。効率化のためのテストだ」
「効率化ねえ。その割には、さっきから携帯をパカパカ、落ち着きがないじゃないか」

 私は作業着のポケットから**折りたたみ携帯**を取り出した。ヒンジがカチリと鳴る感触。物理ボタンの反発。この感触こそが「仕事」のスイッチだ。液晶画面には、iモード風の簡素なテキストサイトが表示されている。そこには、今日の「裏レシピ」の相場が流れていた。

 現在、党ドクトリンのアルゴリズムは穴だらけだ。数万の並行内閣が好き勝手に署名キーを乱発した結果、現場レベルでは「認証をごまかして、ドクトリン規定外の食品を作る」ことが半ば公然の秘密となっている。

 私はプラントの隅にある**共有型バッテリー**のスタンドに向かった。街中のコンビニにあるものと同じ、モバイルバッテリーのレンタル機だ。スロットに空きがあるのを確認し、手持ちのバッテリーを差し込む。同時に、隣のスロットから別のバッテリーを引き抜く。
 カチャリ、という音と共に、バッテリー内部に仕込まれたデータが私の端末へ同期された。ブローカーからの「署名アルゴリズム」だ。

「やれやれ、また泥棒の真似事かい」ウメが溜息をつく。「お天道様が見てるよ」
「お天道様なんて、もう百年くらい誰も直視してないさ」

 私はバッテリーを培養タンクの制御ユニットに接続した。制御ユニットはなぜか、一世紀前の**スマート家電**――ディスプレイ付きの冷蔵庫のような形状をしている。無駄に親しみやすいデザインが、この工場の無機質さを際立たせていた。
「ヘイ、冷蔵庫。今夜のレシピを更新してくれ」
『承知シマシタ。党ドクトリン第402版ニ基ヅキ……オヤ? 署名キーヲ確認。特別措置法ヲ適用シマス』
 スマート家電の合成音声が、少しだけ嬉しそうに弾んだ。画面上のパラメーターが書き換わる。味気ない「標準配給用ブロック」の生成プロセスが、禁断の「平成黄金期・スパイシー・フライドチキン(骨なし)」へと変貌していく。

 培養槽が唸りを上げ、琥珀色の液体が循環し始めた。辺りに漂うのは、化学薬品の臭いではなく、強烈なスパイスと揚げ油の香り――いや、その香りを模した合成香料の匂いだ。

「いい匂いだろ、ばあちゃん」
「……まあね。昔、近所の肉屋で嗅いだ匂いに似てるよ。身体に悪そうな匂いだけどね」
 ウメは渋い顔をしながらも、ARの中で鼻をひくつかせている。彼女の倫理コードには「家族の健康維持」が最優先で刻まれているが、「孫が腹を空かせている」という状況判定がそれを上書きしているらしい。

 十分後。排出口からゴロリと転がり出てきたのは、黄金色に輝く合成肉の塊だった。熱々だ。私はそれをアルミホイルに包み、こっそりと懐に入れた。

 その時、携帯が振動した。短いメール通知。
『着金確認。お疲れ様でした』
 私は作業着の内ポケットから、薄汚れた**通帳**を取り出した。ATMに行かずとも、この特殊な電子インク紙の通帳は、ネットワーク経由で印字が更新される。最新技術とレトロ趣味の悪魔合体だ。
 ページを開くと、ジジジ……と黒い文字が浮かび上がった。

 ――五月十八日 ショクイクテアテ +50,000

「食育手当、ね」私は苦笑した。
 この国のどこかの内閣ユニットが、ランダムに選ばれた五分間の総理大臣権限を行使し、この不正な製造を「食育」として閣議決定したのだ。自動化された汚職。分散化された横領。誰も責任を取らないし、誰も傷つかない。ただ、国民のコレステロール値が少し上がるだけだ。

「帰ろう、ばあちゃん。今日はご馳走だ」
「はいはい。ちゃんと野菜もお食べよ」

 工場の外へ出ると、人工照明による夕暮れが広がっていた。懐の合成肉は熱く、通帳の数字は冷たい。私は一つ欠伸をして、揚げたてのチキンを一口かじった。
 口いっぱいに広がるのは、過剰な塩分と、化学調味料の暴力的な旨味。それは確かに、資料映像で見た「平成」の味がした。
 美味い。涙が出るほど安っぽくて、美味い。
 私は油で汚れた指で携帯を閉じ、家路についた。