配線盤の奥、灯る遺産

──平成0x29A年03月10日 12:40

配線盤の奥に手を突っ込むと、指先が埃まみれの何かに触れた。引っ張り出してみると、VHSテープだった。ラベルには「H14年度 第三期保守記録」と手書きで書いてある。

俺は桜井修、四十歳。旧調布エリアの遺伝子ネットワーク保守員だ。今日は定期点検で、地下の中継ノード室に潜っている。この施設は平成エミュが始まる前から稼働している古株で、設備も妙に古い。

「修、そのテープ、再生機はもうないぞ」

声が聞こえたのは、耳の奥に埋め込んだ触覚フィードバック端末からだ。振動が骨伝導で音声に変換される。声の主は父さん、桜井健一。享年六十二、心不全で逝った。生前は同じ保守員だった。

「わかってる。ただの記念品だろ」

テープを脇に置いて、配線盤の奥を覗き込む。光ファイバーの束が、青白く明滅している。遺伝子ネットワークは、皇室由来の遺伝子断片を国民に薄く分散させたシステムだ。俺たちの仕事は、そのデータ伝送路を保守すること。滅多に障害は起きないが、起きたときは面倒だ。

端末のディスプレイを確認する。iモードサイト風のUIだ。この施設の管理画面は、なぜかずっとこの仕様のままだ。画面には「ノード#4782 署名検証エラー 0.003%」と出ている。

「微妙な数値だな」と父さんが言う。「党ドクトリンの署名が通らないってことか?」

「そう。ごく一部のパケットだけ、署名の暗号がズレてる」

署名検証エラーは、党ドクトリンのアルゴリズムが正しく動いていないことを示す。この施設では、遺伝子データの更新指示が閣議から降りてくるたび、署名を検証している。エラー率0.003%は、統計的にはノイズの範囲だが、放置すると積もる。

俺は配線盤の横にあるメンテナンス端末を起動する。ブラウン管モニタが、ジジッという音とともに点灯した。キーボードを叩いて、署名ログを掘る。

「ああ、これか」

原因はすぐにわかった。この施設のアルゴリズム検証モジュールが、古いバージョンのままなのだ。党ドクトリンの署名は、三百年かけて少しずつ変異している。解読も進んでいるが、公式には「最新版」に更新され続けている建前だ。だが、この施設は更新が追いついていない。

「モジュールを更新すればいいのか?」と父さんが訊く。

「いや、それはできない」

俺は首を振る。この施設のモジュールは、更新すると別の部分で署名が合わなくなる。つまり、古いバージョンのまま動かし続けるしかない。

「じゃあ、どうする?」

「署名エラーを無視するフィルタを入れる」

非公式な手段だ。だが、現場ではよくあることだ。俺は端末に指示を打ち込む。フィルタが有効になると、エラー率がゼロになった。

その瞬間、端末の画面にAR広告がポップアップした。「あなたの統治をサポート! 第0x3F8A2内閣ユニット 署名検証代行サービス」。iモード風UIの上に、立体映像が重なる。ちぐはぐだ。

俺は広告を消して、ため息をつく。

「修、これでいいのか?」と父さんが訊く。声には、わずかな躊躇いがある。

「いいも悪いも、他にやりようがない」

俺は配線盤を閉じて、VHSテープを手に取る。ラベルの文字を見つめる。十四年前、父さんがここで同じ仕事をしていたころの記録だ。

「父さん、あんたもこうやって、誤魔化しながら保守してたのか?」

「……たぶんな」

父さんの声が、少し笑っているように聞こえた。

俺はテープを作業鞄に入れて、施設を後にする。地上に出ると、春の日差しが眩しかった。遺伝子ネットワークは、今日も静かに、薄く、国を繋いでいる。