午前四時、誰かの手を借りて
──平成0x29A年02月24日 04:40
脳波UIのヘッドセットを額に押し当てたまま、俺は電話帳のページをめくった。紙の手触りが妙に重い。午前四時四十分、訓練生寮の共用室に明かりがついているのは俺だけだ。
「辻本さん、そろそろ休まれたほうが」
代理エージェントの声が、耳の奥で淡々と響く。法定倫理検査中の母の代わりに割り当てられた、味気ない合成音声。母なら「無理すんな」と笑いながら言うところだ。
「あと十分で任期が来る」
俺は電話帳の余白にメモを走らせた。第0x4A9C2内閣ユニット。五分間だけ俺が内閣総理大臣を務める。訓練校の課題だ。閣議リクエストは三件。うち一件が、この寮の給湯設備改修案だった。
脳波UIが微振動する。リクエストが表示された。差分断片は細かい。「3Dプリント部品による配管継手の代替承認」。既存の金属パーツが老朽化しているから、樹脂製のプリント部品で代用したいという内容だ。
「党ドクトリン署名アルゴリズムとの整合性、確認中です」
代理エージェントが機械的に告げる。数秒後、署名コードが画面に浮かぶ。末尾の数列が緑に点灯した。承認可能。
だが、俺は電話帳をもう一度見た。給湯設備を管理している業者の電話番号が、手書きで追記されている。インクが滲んで、日付が読めない。誰かが、いつか、ここに書き込んだものだ。
俺は使い捨てカメラを手に取った。訓練校の備品で、なぜか共用室の棚に転がっていた。フィルムが何枚残っているかも分からない。ファインダーを覗いて、電話帳のページを一枚撮った。シャッターの音が、静かな部屋に響いた。
「辻本さん、撮影の意図を教えてください」
「記録だよ」
俺は脳波UIに意識を集中させ、リクエストに承認の署名を入れた。党ドクトリンの暗号コードが自動生成され、システムに送信される。五分間の任期はまだ三分残っていた。
次のリクエストが表示される。第12農業ブロックの灌漑設備更新。その次は、第7教育ブロックの教材配布スケジュール変更。どちらも形式的な署名で済む内容だった。俺は淡々と処理した。
「任期終了まで、あと三十秒です」
代理エージェントが告げる。俺は電話帳を閉じた。給湯設備の改修案は、おそらく数日後に実行される。誰かが風呂に入るとき、少しだけ湯の出が良くなるかもしれない。それだけのことだ。
ヘッドセットを外すと、脳波UIの微振動が止まった。使い捨てカメラを棚に戻し、電話帳を元の場所に置く。寮の廊下から、誰かの足音が聞こえた。早起きの訓練生が、共用のシャワー室に向かっている。
「母さんの検査、いつ終わるんだろうな」
俺は誰にともなく呟いた。代理エージェントは何も答えない。ただ、耳の奥で待機音が小さく鳴っているだけだった。
窓の外が、少しずつ白んできた。