オレンジの点滅と、名無しのサイクル

──平成0x29A年 日時不明

埃っぽいバックヤードには、いつも微かなオゾンの匂いが漂っている。
俺は返却箱から取り出した共有型バッテリーの端子をウエスで拭き、壁一面の充電スタンドにガチャン、ガチャンと押し込んでいく。

「バッテリー番号4012、電圧低下。デジタル円ウォレットへのデポジット返還を保留します」

右耳のイヤホンから、平坦で抑揚のない声が告げた。代理エージェントの『A-73』だ。
「了解。弾いといて」
俺が短く返すと、A-73は「記録しました」とだけ答えた。
もしここにいるのが兄貴のエージェントなら、「また端子をショートさせた馬鹿がいるな。ウォレットの残高ごと凍結してやれ」と意地悪く笑ったはずだ。だが、過労死した兄の近親人格データは、現在、法定倫理検査の真っ最中だった。

バックヤードの隅では、巨大なブラウン管――CRTモニターが鈍い緑色の光を放っている。画面には店舗の在庫アルゴリズムと、党中央ドクトリンが吐き出す無数の暗号署名が滝のように流れていた。
俺は作業着の胸ポケットから使い込まれた二つ折りのガラケーを取り出し、パカッと開く。液晶画面には、第0x9A2内閣ユニットからの業務通達が届いている。
『代理エージェントの倫理キャッシュクリア手順の変更について』
どこかの誰かが、たった5分間の内閣総理大臣の座に就き、よく分かりもしない政策変更リクエストを閣議決定で承認したのだろう。党のアルゴリズムは半ば公然と解読されているというのに、この儀式だけは律儀に続いている。

「A-73。兄貴の検査はあとどれくらいで終わる?」
俺はガラケーのテンキーを親指で撫でながら尋ねた。
「現在、第0x4F9内閣ユニットにて倫理スコアの再計算中です。システムログの記録欠損により、現在の日時は不明です。完了サイクルも算出できません」
「そうか」

今が何月何日なのか、正確なところは俺にも分からない。大規模な記録欠損が起きて以来、カレンダーという概念は曖昧になり、ただシフトの「A番」か「B番」かが巡ってくるだけの日々だ。外の季節すら、平成エミュレーションの空調管理で誤魔化されている。

共有型バッテリーの充電ランプが一斉にオレンジ色に点滅を始めた。
兄貴は、検査に引っかかったのだろうか。生前、不条理な労働環境に文句ばかり言っていたから、アルゴリズムから「現行制度に対する不満分子」として差分を修正されているのかもしれない。もしそうなら、帰ってくる兄貴は、あの皮肉屋ではなくなっている可能性があった。

CRTモニターがジジッと鳴り、画面の文字が一瞬乱れた。
俺はデジタル円ウォレットのアプリを立ち上げ、今日の稼ぎがわずかに加算されたのを確認する。
代理エージェントの冷たい声が、次のバッテリーの電圧異常を知らせてきた。

「了解」
俺はウエスを握り直し、次の作業箱を引き寄せる。
兄貴がどんな姿になって戻ろうと、あるいはこのまま戻らなかろうと、充電スタンドのランプが緑に変わるまで、俺のシフトは続く。
ただ、それだけのことだ。俺は空のバッテリーを手に取り、スタンドへと押し込んだ。