折込チラシの裏、避難訓練のデジタルツイン

──平成0x29A年05月18日 16:20

 スーファミのコントローラーを握ったまま寝落ちしていたらしい。

 耳元で祖母の声がした。

「——つぐみ、四時過ぎてるよ。今日、訓練でしょう」

 飛び起きた。テレビ画面にはクロノ・トリガーの中断セーブ画面が映っている。ブラウン管の端に、折込チラシの束が散らばっていた。昨晩ポストから抜いたまま放ってあったやつだ。〈旧足立エリア合同水害対応訓練 五月十八日 十六時集合〉——それが一番上にある。

「やば」

 あたしは靴下を片方だけ履いて玄関を飛び出した。

 藤原つぐみ、二十五歳。旧足立エリア防災管理課の臨時職員。今日の訓練は、あたしが調整を任されたはじめての現場だった。

「チラシ、もう一枚持ってきな。受付で配るんでしょう」

 祖母——藤原ハナのエージェントが、視界の隅にアイコンを点滅させる。享年七十一。五年前に大動脈解離で逝った、あたしを育ててくれた人。声だけは昔のまま、少し甲高くて、語尾がいつも上がる。

「いらない、デジタルツインで全部やるから」

「またその横文字。紙がいちばん確実って、あたしは——」

「はいはい」

 走りながらポケットのエッジAI端末を起動する。ガラケーを二つ折りにしたくらいのサイズで、背面にはサブスク音楽のステッカーが貼ってある。画面にはiモード風のUIが立ち上がり、今日の訓練用デジタルツインの読み込みステータスが流れた。

 旧足立エリア一帯の地形・建物・住民動態を丸ごとシミュレートした仮想空間。そこに実際の参加者の位置データをリアルタイムで重ねて、避難経路の検証をやる。あたしの仕事は、そのツイン上の数値を現場指揮官にフィードバックすること。

 会場の小学校体育館に着くと、すでに三十人ほどの住民が折りたたみ椅子に座っていた。受付で端末をかざす。訓練開始のカウントダウンが始まった。

 そのとき通知が飛んできた。

〈第0x7A2F1内閣ユニット 臨時閣議招集 藤原つぐみ殿を内閣総理大臣に任命 任期:五分間〉

「……嘘でしょ」

 祖母が即座に言った。「来たねえ。あたしも昔、一回だけあったよ。豆腐買ってる最中だった」

 端末に政策変更リクエストの一覧がずらりと並ぶ。七件。五分で裁かなきゃいけない。

 六件は祖母のエージェント補佐とアルゴリズム署名の自動照合で処理できた。ドクトリンとの差分がほぼゼロ、定型的なやつだ。署名鍵なんてもう半ば公開鍵みたいなものだから、照合も一瞬で通る。

 七件目で手が止まった。

〈災害時エッジAI端末への行政データ一時開放——範囲拡大要求〉

 デジタルツインの精度を上げるために、住民の健康データや要支援者リストを訓練中だけでなく平時からエッジ端末にキャッシュさせたい、という内容だった。

「ハナさん、これどう思う」

「あたしにはよくわかんないけど」と祖母は言った。「でもね、あんたが走ってきたとき、あたしにはあんたの心拍も血圧も見えてた。それが誰かの役に立つなら、悪いことじゃないと思うよ」

 体育館では訓練のサイレンが鳴り始めていた。住民たちが立ち上がり、校庭へ向かう。デジタルツイン上で、避難経路にひとつ赤い渋滞マーカーが点灯した。車椅子の高齢者が一人、スロープ前で詰まっている。

 あたしは承認ボタンを押した。

 五分が終わった。

 端末に〈任期満了 おつかれさまでした〉と表示される。

 校庭に出ると、さっきの車椅子のおばあさんが、ボランティアの腕を借りてスロープを降りきったところだった。ツイン上の赤いマーカーが緑に変わる。

「つぐみ、チラシ」

「だからいらないって——」

「裏が白紙でしょ。メモに使いな」

 ポケットに突っ込んだままの折込チラシを引っ張り出すと、裏面はたしかに真っ白だった。あたしはそこに、さっきの渋滞ポイントの座標と改善案を走り書きした。

 紙に書くと、なぜか少しだけ安心する。

 祖母のアイコンが、視界の隅でほんのり笑った気がした。