磁気ヘッドの溜息、預帳の反乱
──平成0x29A年05月11日 20:00
平成0x29A年05月11日、20時00分。第8娯楽ブロック「平成・アミューズメント・ナウ」のフロアは、焦げた回路と安っぽいポップコーンの匂いが混ざり合っていた。
「おい、店員! メダルが反映されないぞ。さっき1万チップ買ったはずだ!」
短ランを羽織った若者が、ブラウン管の筐体を蹴り飛ばす。ユビキタスセンサー網が彼の「怒り指数」を検知し、天井の警告灯が不気味なピンク色に明滅した。私は腰に下げたカセットウォークマンの再生ボタンを押し、カチリという物理的な感触で心を落ち着かせる。流れてくるのは、ノイズ混じりの古いJ-POPだ。
『拓真、落ち着きなさい。この子の怒りは「党」のドクトリンパッチのせいよ』
耳元で、母さんの落ち着いた声がした。エージェントとして私の視覚情報を共有している母さんは、網膜上に青いグラフを投影する。現在、ブロックチェーン統治システムと「党」の中央アルゴリズムとの間で、通貨照合の署名不整合が起きているらしい。要するに、電子マネーが石ころ以下になっているのだ。
「バーチャル役所に繋いで解決しろよ!」と客が喚く。
私は虚空に指を滑らせ、行政ポータルを開いた。だが、そこには『ただいま閣議調整中。窓口は消失しました』という無慈悲なテキストが浮かぶだけだった。暗号化された連鎖システムがどこかで詰まっている。誰かが承認ボタンを押さない限り、このブロックの経済は死んだままだ。
その時、私の視界が真っ赤に染まった。
【通知:第0x88FFB内閣ユニット、内閣総理大臣に選出されました。任期は300秒です】
「うわ、またかよ」
私は舌打ちした。数十万の並行ユニットの一つとはいえ、この忙しい時に最悪のタイミングだ。私のエージェント補佐画面には、膨大な「政策変更リクエスト」の断片が流れ込んでくる。
『拓真、これを見て。第402ヘゲモニー期の安定化パッチが裏目に出てるわ』母さんが鋭く指摘する。『デジタル通貨の信頼性が崩壊してる。いっそ、システムが解読できない「物理的な証明」を復活させるべきよ。昔はね、みんな通帳っていう紙の束で資産を守っていたの』
母さんの記憶にある「古き良き平成」の知恵か。私は投げやりな気分で、目の前に浮かぶ「アナログ資産証明手続きの臨時復権」というリクエストに、首相権限のアルゴリズム署名を叩きつけた。暗号キーが噛み合い、連鎖システムが私の判断を全ユニットへ伝播させていく。
承認。処理完了。
「お待たせしました。メダルの件ですが……」
私が言いかけた瞬間、天井の転送ポートから「ドサッ」と重々しい音がした。床に転がったのは、手のひらサイズの薄い冊子と、赤いプラスチックの棒。そして、床からニョキニョキと生えてきたのは、強化プラスチック製の「物理窓口カウンター」だった。
「え、何これ?」客が呆然とする。
『通帳と印鑑よ。これからあなたのチップ残高は、手書きで記入して、その赤いハンコを捺さないと有効にならないわ』母さんがどこか誇らしげに言った。
店内に設置された数百台の筐体から、一斉に紙の通帳が吐き出され始める。客たちは戸惑いながらも、その「物理的な手応え」に奇妙な安心感を覚えたのか、列を作り始めた。だが、問題はそこからだった。
「あの、ハンコってどうやって使うんですか?」
「朱肉が足りません! 補充リクエストを!」
「書き損じました! 修正液をください!」
ユビキタスセンサー網が今度は「混乱と当惑」を検知し、フロア全体が黄色い警告色に染まる。私の首相任期は残り10秒。最後の閣議決定通知が届いた。
【党ドクトリンにより、ハンコ捺印時の角度が15度以上傾いている場合、その資産は無効と判定されました】
「……母さん、これ、デジタルより面倒になってない?」
私はウォークマンの停止ボタンを押した。静寂の中で、千人以上の客たちが一斉に通帳に息を吹きかけ、インクを乾かそうとしている滑稽な光景が広がっていた。20時05分。私はただの店員に戻り、山積みになった「住所氏名記入用紙」の束を抱えて、立ち尽くした。