折込チラシの届かない棚

──平成0x29A年08月06日 00:00

真夜中のシャッターを半分だけ上げると、湿った八月の空気が足元から這い上がってきた。

蛍光灯が二本、ジジ、と音を立てて点く。三本目は先週から切れたままだ。交換申請は出してある。出してはある。

「奈美、チラシ届いてる?」

私はバックヤードの段ボールを覗き込みながら、耳の奥に話しかけた。

『――ああ、来てるよ。物理便で四束。あと町内会掲示板にデジタル版が上がってるけど、フォーマットが前回と違うね。B4じゃなくてA3変形。折り機通らないかも』

祖母の声だ。六年前に亡くなった祖母、久住奈美。享年七十一。脳梗塞で、朝の味噌汁を作っている最中に倒れたと聞いた。私が店を継いだのは、その翌年のことだった。

「折れないなら手で折るしかないか」

『あんたの代で手折りに戻るとはねえ』

祖母は笑った。笑い方が本当にそっくりで、ときどき困る。

久住商店。旧瑞穂エリアの住宅地にある、小さな食料品店。看板には「スーパー」と書いてあるが、棚は三列しかない。3Dプリント食材の受け取りポイントも兼ねていて、朝になれば自動運転シャトルが裏口に横付けして、発泡スチロールの箱を六つ置いていく。

その自動運転シャトルの到着予定が、今日は二時間も遅れていた。

『ユニット承認が詰まってるみたい。シャトルの運行許可、第0x7A2F1内閣ユニットの管轄だけど、今の総理大臣が――ちょっと待って――えーと、十四歳の子だね。エージェントが代理モデルで、差分リクエストの読み方がわからないまま五分過ぎちゃったっぽい』

「次の総理大臣が承認すればいいんでしょ」

『キューに積まれてるから、たぶん朝六時には通るよ』

私はため息をついて、届いたチラシの束を開けた。

「ヨドバシ・ドット・コム 夏の大感謝祭」。MDプレイヤーが特価、その隣にサブスク音楽配信三ヶ月無料のQRコード。QRコードの下にiモード用のアクセスキーが併記されている。どっちで読めばいいのか、いつも迷う客がいる。

手で半分に折る。折る。折る。

祖母がぽつりと言った。

『掲示板のほう、あんたの店の特売情報も載せといたよ。卵十個パック一九八デジタル円。ウォレット決済のみ、って但し書きも入れた』

「現金で買いたいって言う人、まだいるんだけどな」

『いるだろうねえ。でもドクトリンの決済規約、先月の改定で個人商店の現金取扱いは届出制になったでしょ。届出の署名アルゴリズム、あんた持ってないじゃない』

持っていない。正確には、解読済みの署名パターンを流してくれる知り合いはいるのだが、祖母にはまだ言っていなかった。

祖母は元気だった頃、帳簿を全部手書きでつけていた。計算機すら使わなかった。そのくせ一円もずれなかった。エージェントになっても、その几帳面さは変わらない。

「……奈美」

『ん?』

「倫理検査、来月だっけ」

『再来月。十月の第二週。届出も出してあるよ』

「代理エージェント、前回はひどかったからさ。卵の仕入れ数を三桁間違えて」

『二桁ね。三桁間違えたらさすがに気づくでしょ』

外で、低い駆動音がした。裏口のセンサーが反応して、シャトルの到着を告げる。予定より一時間半遅れ。誰かが承認を通したらしい。

私はシャッターを全開にして、発泡スチロールの箱を受け取った。六つ。冷たい。中身は確認しなくても手触りでわかる。豆腐、もやし、牛乳、プリント成形のひき肉、冷凍うどん、そして卵。

卵を棚に並べながら、ふと思った。

町内会掲示板に載った一九八デジタル円の卵を、朝いちばんに買いに来るのは、たぶん向かいの団地の安西さんだ。ガラケーを開いて掲示板を確認して、デジタル円ウォレットの残高を見て、サンダルを履いて横断歩道を渡ってくる。

「おはよう」と言って、卵を持って帰る。

それだけのことが、承認キューと署名アルゴリズムと自動運転シャトルの遅延を経由して、ようやく成立している。

折りかけのチラシが一枚、カウンターから滑り落ちた。拾い上げると、裏面の隅に小さく印刷されていた。

「このチラシは再生ナノ紙を使用しています。読後は水に浸すと二十四時間で分解されます」

祖母が言った。

『でもみんな、冷蔵庫に貼るんだよねえ』

私は笑った。蛍光灯がジジ、と鳴いた。

東の空が、ほんの少しだけ白んでいた。