雨粒のチェックイン
──平成0x29A年09月17日 23:00
平成0x29A年9月17日、23時。
駅前の観光案内所は、終電前の湿った風だけが出入りしていた。自動ドアが開くたび、外の雨の匂いと、パンフレットのインクの匂いが混ざる。
カウンターの端に、忘れ物のビニール傘が三本。どれも透明で、持ち手だけが微妙に黄ばんでいる。返却タグは付いているのに、返却処理が終わっていない。
「また監査、来るの?」
耳の奥で、母の声がする。私の補助エージェントは母だ。生きていたころと同じ、心配性の早口。
「来るよ。今夜は“来訪者対応ログ”が重点だって」
私はそう言いながら、机の上の端末をタップした。画面は最新のAR投影にできるのに、うちの所はなぜか“平成の見た目”が標準で、青いメニューに小さな文字が並ぶ。利用者にも説明しやすいから、と上が言う。
案内所の公式ポータルは、いまだにiモードサイトの体裁を引きずっている。
【1 観光地検索】【2 迷子/遺失物】【3 交通案内】
数字キーの入力を求める古いUIを、指でなぞって選ぶ。背後の棚では、紙のガイドブックと、ストリーミング用QRが同じホルダーに刺さっている。
ドアが開き、ずぶ濡れの青年が入ってきた。
「すみません、宿の場所……端末、圏外で」
私は笑顔を作り、カウンターの下から貸出用の小さな位置情報ビーコンを出す。キーホルダー型で、点滅が弱い。
「これ、持ってください。街の案内ビーコン網に乗るので、ルートが出ます。返却は明日の昼までで」
青年がそれを掴むと、端末が短く震えた。
【来訪者補助ビーコン貸与:記録必須/監査対象】
母がため息をつく。
「貸しただけで“必須”って、昔は紙に名前書けば済んだのにね」
昔がいつかなんて、私はよく知らない。ただ、ここ数ヶ月で“必須”が増えた。誰かが、どこかの内閣ユニットで差分断片を通しているのだろう。小さなルールの更新が、夜の空気を少しずつ固くする。
青年が去った直後、監査の通知が来た。
【第402ヘゲモニー期/来訪者対応・過剰監査モード】
【現行制度との差分断片:迷子対応の記憶補助アプリ併用を義務化】
【署名検証:党ドクトリン準拠】
私は喉の奥が乾くのを感じた。
義務化、という言葉が嫌いだ。観光客の迷子対応なんて、地図を指さして、傘を渡して、それでよかったのに。
「で、今日は何を出せって?」
母が覗き込むように言う。
私は端末で記憶補助アプリを開く。これも平成っぽい。付箋のアイコンが並び、音はピコピコ鳴る。なのに裏では、本人同意だの、滞在目的だの、ビーコンの履歴だの、細かい項目が連鎖している。
その時、電話が鳴った。公衆回線の音、わざとらしい電子ベル。
「案内所です」
「すみません、夫が戻らなくて……ビーコン貸してもらったはずで……」
女性の声は震えている。背景に雨音。
私は記憶補助アプリに“迷子”のテンプレを立ち上げ、項目を埋め始めた。
名前、年齢、服装、最後に見た場所。
「ビーコンID、わかりますか」
「えっと……分からないです。手続きの画面が……」
母が小さく言った。
「傘、渡しなさい。まず。濡れるでしょう」
私はカウンターの端のビニール傘を一本取り、ドアの外へ出た。案内所前の屋根の下に、女性が立っていた。片手に端末、もう片手は空で、雨粒が腕を伝っていた。
「これ、どうぞ」
傘を差し出すと、女性は一瞬だけ泣きそうな顔になって受け取った。
「ありがとうございます……」
戻って、私は端末に向かう。監査用のチェックリストが、赤い枠で私を急かす。
【記憶補助アプリ:同意取得/録音/要約/保存期間】
「そんなの、今じゃない」
私は独り言を漏らした。
母が、少し声を落とした。
「でも、やらないとあなたが怒られる。……私の時みたいに、無理して倒れるの、嫌」
私は指を止めた。母は過労で亡くなった。私の中の母は、いまも私を働かせないために、働けと言う。
結局、私はアプリの“簡易同意”を選び、女性の口頭を記録にした。音声は自動で要約され、地図が生成され、ビーコン網から“最後に捕捉した位置”が返ってきた。
【捕捉地点:第0x29A-09-17_23:02/南口公衆トイレ付近】
そこに、奇妙な追記が一行。
【代理エージェント稼働中:倫理検査により本人補助停止】
夫の端末の中で、誰かが“代理”として動いている。誰の人格か、こちらからは見えない。
母が囁く。
「他人の中の他人が、迷子を案内してるのね」
私は女性に場所を伝え、警備端末にも連絡を回した。手続きの最後、監査項目が一つだけ残る。
【遺失物:返却処理の即時実施】
私はふと、さっき渡したビニール傘のことを思い出した。
返却タグもない、ただの忘れ物。
監査的には、まずい。
でも、いまは傘が必要だった。
数分後、女性から折り返しが来た。
「見つかりました。……夫、ビーコン落としてて。トイレの前で、知らない人が拾ってくれて」
声が少し明るい。
私は胸の奥がほどけた。
「よかったです。傘は、返せる時で大丈夫です」
通話を切ったあと、端末がまた震えた。
【監査結果:遺失物処理未完了(ビニール傘1)/指導】
母が言った。
「怒られた?」
「うん。でも……」
私は、残った二本のビニール傘を見た。透明な膜に、蛍光灯がぼんやり映る。
母の声が、少しだけ柔らかくなる。
「あなた、傘、好きだったね。小さい頃。雨の日は、透明だと空が見えるって」
そんなこと、忘れていた。
記憶補助アプリより、母の一言のほうが早い。
私は監査の指導ボタンを押し、形式的な反省文テンプレを開いた。画面の片隅に、貸与ビーコンの返却予定が点滅している。
雨はまだ降っている。
でも今夜、一本の傘は、誰かの家まで歩くために使われている。
私の中で、母が小さく笑った。
「……返ってこなくても、いいじゃない。ああいうの、継いでいけば」
私は“返却処理未完了”の赤い文字を見つめながら、なぜだか、そのままにしておこうと思った。