秒針のずれる点検室
──平成0x29A年10月09日 09:20
平成0x29A年10月09日、09:20。点検棟の廊下は、ワックスと埃と、どこか甘い消毒液の匂いが混ざっている。
「今日の巡回、二階から」
耳の奥で、父の声が言う。父――正確には、亡くなった父の人格エージェントだ。昔の癖で、私は返事をしそうになる。
「了解。……って、誰に言ってんだろ」
点検室の扉を開けると、壁に掛かったアナログ時計がまず目に入る。白い文字盤、黒い針。秒針だけがやけに大きい。私はその下に貼られたQR札をスマートグラスで読む。視界に、点検項目が古いiモードみたいな縦長メニューで浮かび、右上に小さく「AI秘書:ミナミ(簡易)」と出た。
「伊東さん、定期点検開始。前回との差分、12件」
ミナミは抑揚のない女声だ。父の声に似せる配慮もない。倫理検査で本来の補助が落ちている間だけの、代替秘書。
「差分、ってほどでも……」
と呟きながら、私は工具箱を開ける。中身は平成のホームセンターで見たようなドライバーと、指先に貼る小型センサーと、紙の点検表。紙は好きだ。更新漏れしても裏切らない。
ブラウン管テレビの背面パネルを外す。ここは「情報表示装置」と呼ばれているが、実体は黒い箱だ。画面の角は丸く、電源を入れると静電気が髪を撫でる。映像はデジタル配信を受けているらしいのに、あえてブラウン管に変換して映す。
スマートグラス越しに見ると、走査線の揺れにARの注意喚起が薄く負ける。『輝度低下:許容範囲内』。『音声出力:左右差 2%』。そして赤字が一つ。
『記憶補助パッチ:未適用(17日遅延)』
「またか」
私は指先で項目をタップする。ミナミが淡々と説明する。
「記憶補助の更新が未実施です。作業者の手順想起を補う音声ガイドが旧版のまま。二階の巡回順、旧配線図に基づき提示されます」
父が口を挟む。
「だから言ったろ。紙に戻せって。お前、最近、順番飛ばす」
「飛ばしてない。……たぶん」
私はアナログ時計を見る。09:20ちょうどのはずが、秒針が二秒ほど早い気がした。いや、私の感覚が遅れているのかもしれない。記憶補助が古いと、こういう“確かさ”がじわじわ削れる。
テレビの横に置かれた小さな端末が、更新通知を吐き出している。紙のレシートみたいな感熱プリント。
『内閣ユニット差分配布:第0x3A19F内閣ユニット/点検運用手順 v.402-10』
『承認署名:党ドクトリン検証済(公開鍵:既知)』
「既知って書かれると、逆に不安だな」
私が言うと、ミナミは間を空けずに返す。
「不安は作業効率を低下させます。更新を適用しますか」
適用ボタンの横に、小さく注意書きが出ている。
『適用中、人格エージェントの補助プロファイルが一時的に再同期されます』
父の声が、少し遠くなる。
「やめとけ。今のままでいい。お前は自分で覚えてる」
でも、点検棟の廊下で、私は昨日のことをもう一度思い出す。二階の非常灯チェックを一つ飛ばし、戻るのに十五分かかった。戻った理由は“気持ち悪さ”だった。誰かに言われたわけじゃない。
「更新する」
私は言って、紙の点検表の余白に今日の日付を書いた。手書きの線は、少し震えた。
ミナミが告げる。
「適用開始。第0x3A19F内閣ユニットからの差分断片を反映します」
ブラウン管の画面が一瞬だけ白くフラッシュし、砂嵐が走った。スマートグラスには、細い進捗バー。アナログ時計の秒針だけが、変わらず忙しなく回る。
父の声が途切れ、代わりに、別の“父の声”が入ってきた。
「二階から、だ。廊下の突き当たり、消火栓の前は滑る。気をつけろ」
語尾の癖が違う。叱り方も違う。私の父は、そんなに具体的に注意しなかった。
「……誰?」
思わず口に出す。
ミナミが答える。
「近親人格エージェント:伊東 恒一。補助用記憶索引、最新版へ再整列しました」
父の名前は合っている。でも、いま耳にいるのは、父の“最新版”だ。更新が遅れていた分だけ、私の知らない父が増えた。
私はブラウン管の背面パネルを戻し、ネジを締める。指先センサーが軽く震え、『締結トルク:適正』と表示する。スマートグラス越しの警告が消え、点検項目は淡い緑に変わる。
廊下に出る。ワックスの匂いが同じで、壁の掲示板の紙も同じで、アナログ時計の針も変わらない。
「二階からだ」
耳の中の父が、もう一度言う。
私は頷いた。誰に向けた頷きかは、わからないまま。
二秒早い秒針に合わせて歩き出す。早いなら、早いなりに巡回すればいい。点検は、ずれても続く。私も、続く。