雨に鳴る回線
──平成0x29A年05月04日 12:40
平成0x29A年05月04日 12:40。
昼休みの交代をもらって、私は団地の外廊下に出た。空は明るいのに、雨だけがまっすぐ落ちてくる。傘立てに残っていた透明のビニール傘を一本、勝手に借りる。
「返し忘れないで。前もやった」
耳の内側で、父の声がする。
父――三宅 恒一、享年59。心不全で倒れて、そのまま私のエージェントになった。生前から細かい人で、いまも私の癖を全部覚えている。
傘を開いた瞬間、軒下のユビキタスセンサー網が反応した。廊下の天井に小さな黒点が並び、私の歩幅と体温と傘の開閉を、何も言わずに数えていく。
「未登録傘。共有物のため、持出し記録を推奨します」
頭上のスピーカーから、合成音声アナウンス。やけに丁寧な語尾が、雨より冷たい。
私は肩をすくめて、ポケットのガラケーを取り出した。表面は擦れてるのに、画面だけは妙に鮮やかで、iモードみたいなメニューの上に、サブスクの「公共傘トラッキング」通知が浮く。
持出し記録――要は、傘にも利用履歴が要る。平成を真似るなら、傘なんて黙って借りて、黙って戻して、たまに誰かのを間違えるくらいでちょうどいいのに。
「やるだけやっとけ。後で面倒になる」
父が言う。
私は渋々、ガラケーの決定ボタンを押した。
《傘IDの読み取り》
ビニール傘の柄に貼られたシールは、雨でふやけて数字が滲んでいる。カメラを向けると、読み取り枠が震えた。
《識別不能:類似ID 38件》
「ほらな」と父。
そのとき、着メロが鳴った。
短い電子音が、雨粒の間に飛び出す。昔、父の携帯からよく鳴っていたやつだ。なのに表示は「水務ユニット/自動」。
出ると、合成音声アナウンスが耳に直接流れ込んできた。
「本地区の上水圧、基準外。節水にご協力ください。なお――」
一拍おいて、声がほんの少しだけ“人間っぽく”なる。
「あなたは、五分間、内閣ユニットの責任者に割り当てられました」
私は思わず、雨の中で立ち止まった。
「お前、また当たったのか」父が笑う。笑い方だけ生前のままなのが腹立たしい。
ガラケーの画面に、見慣れない赤い帯が出た。
《第0x7C1B2内閣ユニット:首班権限(残り 04:58)》
《差分断片:上水圧制御/運用ルール微修正》
《党ドクトリン署名:要》
私は、弁当の買い出しに行きたいだけだ。
なのに雨の下で、誰かが投げた制度の欠け端を、私が拾わされる。
差分断片を開く。
《“平成的節水呼びかけ”の音声テンプレートを、固定時報(12:40)に合わせて再生》
「……時報?」
父が鼻で笑った。
「平成の正午はチャイムだろ。水圧より、気分が大事ってやつだ」
私は団地のスピーカーを見上げた。センサー網が私の視線を拾って、黒点が一斉に瞬く。まるで、私に賛成票を求める目。
署名要求の欄に、党ドクトリンの鍵の断片が自動で並ぶ。最近は、解読された鍵が市場で出回っている。みんな知っているのに、手続きだけが残っている。
「押すのか?」
父が聞く。
私は親指を止めた。水圧が落ちてるなら、テンプレの時報遊びなんてどうでもいい。
でも、これを非承認にしたら、別の誰かの五分に回って、結局どこかで通る。
私は承認を押した。
合成音声アナウンスがすぐに団地に広がった。
「ただいま正午をお知らせします。節水にご協力ください」
正午じゃない。12:40だ。
雨音に混じって、廊下のあちこちで小さなため息が起きる。誰かが窓を閉め、誰かが蛇口をひねるのをやめ、誰かが笑った。
私のガラケーが、また着メロで鳴った。
《首班権限 終了》
「お前さ」と父が言う。「昔、時報を直す係になりたかったんだろ」
「なりたかったのは、時計屋だよ」
私はビニール傘の水滴を払って、廊下の傘立てに戻した。返却記録は、結局つけられなかった。
スピーカーが最後に一言、丁寧に言い添える。
「未登録傘の返却を確認できませんでした。善処をお願いします」
私は笑ってしまった。苦い。
雨の中では、善処のしようもないのに。
背中で、ユビキタスセンサー網が私の笑い声まで数えている気がした。