記録のズレは自腹で埋める
──平成0x29A年04月30日 18:50
スマートグラスの端に映る配達完了予定時刻が、赤く点滅し始めてもう十分は経っていた。
「ほら見ろ。また今日のノルマ未達だ。段取りが悪いからそうなる」
鼓膜に直接響く父さんの声は、生前と少しも変わらない。変わったのは、その声に肉体が伴わないことだけだ。
俺は舌打ちを堪え、古びた集合住宅の302号室のインターホンをもう一度押した。
『はい、はい、今出ますよ』
少し掠れた声がして、ゆっくりとドアが開く。
「配達ご苦労さまです」
現れた老人は、しわくちゃの笑顔で頭を下げた。
俺は営業スマイルを貼り付け、手元の端末を操作する。荷物を差し出しながら、受取人認証のため、老人の顔をスマートグラスのカメラでスキャンした。
『ERROR: 個人データとの不整合を検知。記録の再同期を推奨します』
冷たい合成音声が、俺の視界に表示された赤い警告文を読み上げる。
「……またか」
思わず声が漏れた。最近、こういう末端のトラブルが本当に多い。
老人はきょとんとしている。
「あの、何か?」
「いえ、認証がうまくいかなくて。ご本人様……タカハシ・ヨシオ様で、お間違いないですよね?」
「いかにも、わしがタカハシですが」
「システム上の記録と、今のタカハシ様の生体情報にズレがあるみたいでして。申し訳ないですが、データの再同期処理をかけないと、この荷物はお渡しできない決まりなんです」
「そんな……。わしはずっと、わしだよ」
老人は困惑しきった顔で、自分の頬に触れた。
父さんが囁く。
『センターに問い合わせろ。マニュアル通りが一番だ』
言われるまでもない。センターのサポートAIに接続すると、予想通りの定型文が返ってくるだけだった。『手順に従い、現地にて再同期処理を実行してください。なお、処理に伴う遅延は配達員の責任範囲となります』
この再同期ってやつが、やたらと時間がかかるんだ。最低でも三十分。こっちの通信リソースを食うだけの、厄介な処理。
「困ったのう……」
老人が戸棚をごそごそと漁り始め、やがて一冊の古びた冊子を手に戻ってきた。
「これじゃ、だめかね?」
差し出されたのは、紙の通帳だった。表紙には「みどり銀行」とある。名前も住所も、配達伝票と一致している。
『圭介、無駄だ。そんなアナログなものは何の証明にもならん』
分かってる。分かってるけど。
「申し訳ありません。システムで認証しないと……」
俺が言い淀むと、父さんがさらに畳みかけてきた。
『自腹で時間貸しCPUを使え。3分だけ借りれば、同期は5分で終わる。お前の今日の残業代よりは安くつくぞ』
視界の隅に、時間貸しCPUのレンタルメニューをポップアップさせる。一番安いプランでも、今日の昼飯代くらいは軽く吹き飛ぶ。
荷物の品目欄に目を落とす。『玩具(ゲームセンターメダル500枚セット)』とあった。
「孫が、楽しみにしておるもんで……」
老人が、通帳を握りしめたまま、か細い声で言った。
俺は大きく、本当に大きくため息をついた。
「……分かりました。すぐ終わらせます」
スマートグラスのメニューを指先で弾き、CPUレンタルのボタンを押す。クレジット残高が、あっけなく数字を減らした。
再同期のプログレスバーが、普段の何倍もの速度で伸びていく。
処理を待つ間、俺は老人が持つ通帳に目をやった。最後の記帳は、何十年も前の日付で止まっていた。
この人の時間は、ずっと昔に記録が止まって、ズレたまま、ここに在り続けるんだろう。
やがて、軽快な電子音が鳴った。
『認証完了』
俺は黙って荷物を手渡した。老人は何度も頭を下げ、「ありがとう、ありがとう」と繰り返した。
アパートの錆びた階段を降りながら、父さんが呆れたように言った。
『結局、お前は甘いんだ。通帳に穴が開くぞ』
「うるさいよ」
夕闇が迫る中、俺はポケットを探った。もちろん、そこには何もない。
それでも、じゃらじゃらと鳴るメダルの幻の音が、確かに聞こえた気がした。