緑色の受話器、規定外のコーンスープ
──平成0x29A年12月08日 04:20
午前四時二十分。都市の代謝が最も鈍るこの時間、厨房のステンレスは冷え切った魚の腹のように鈍く光る。
私は第5商業区のファミリーレストラン「ガスト・ネオ」のバックヤードで、業務用冷蔵庫のブーンという低い唸りを聞いていた。足元では、円盤型のロボ清掃員がウィーンと気の抜けた音を立てて徘徊している。
「おい健吾、四番テーブルの下げ物が残ってるぞ。党の衛生基準に引っかかる」
頭の中で、親父の声が響いた。享年六十八、元洋食屋の頑固店主。私の網膜には、彼のエージェントアイコンであるコック帽が半透明に浮かんでいる。
「親父、今は休憩中だ。それに四番はセンサーの誤作動だよ。誰も座ってない」
私は視界の端に表示される業務ステータスを指で弾いて消した。平成エミュレートされたこの社会では、深夜のファミレスは孤独な魂の吹き溜まりとして機能することが推奨されているが、今の客入りはゼロだ。
ロボ清掃員が私の靴先にぶつかり、方向転換する。こいつが吸い込んでいるのはただの埃ではない。空気中に散布された「センサーダスト」――極小の監視用チップの残骸だ。市民の感情や体温をモニタリングするこの粉塵は、古くなると床に積もり、こうして物理的に回収される。
その時、裏口の重い鉄扉の向こうで、ジリリリリ、とベルが鳴った。
緑色の公衆電話だ。店の外壁、従業員用通用口の脇に設置された、骨董品の通信機。
「来たな。時間通りだ」
親父の声が弾む。
私は立ち上がり、保温ポットのコーンスープをマグカップに注いだ。規定量より少し多め。これが我々の「非公式ルール」だ。
しかし、視界の中央に赤い警告灯が点滅した。
『在庫照合警告:主要食材の減損が許容範囲を超過しています。直ちに第78内閣ユニット・監査ボットへ報告してください』
「チッ、今日は監査の締め日だったか」
私は舌打ちした。スープ一杯分の重量誤差すら、今夜のアルゴリズムは見逃さないらしい。このまま持ち出せば、私の給与天引きどころか、店の営業停止リスクもある。
「どうする、健吾。見捨てるか? あの婆さん、この寒空じゃ凍えちまうぞ」
親父が煽る。わかっている。裏口の外には、この区画の古株である「先生」と呼ばれる老婆が待っているはずだ。彼女は戸籍もIDもない棄民だが、昔はこの街の都市計画に関わっていたという噂がある。
私はロボ清掃員を見下ろした。こいつの腹の中には、高密度のセンサーダストが詰まっている。金属とシリコンの塊だ。
私はしゃがみ込み、ロボのダストボックスを強引に引き抜いた。
「おい、何する気だ」
「重量合わせだよ」
私はスープを注いだマグカップをトレイに乗せ、代わりにダストボックスを「廃棄食材計量器」の上に置いた。センサーダストはずっしりと重い。システムが「廃棄予定の冷凍ハンバーグ」と誤認するのに十分な質量だ。
モニターの警告色が、赤から緑へと変わる。
『照合完了。廃棄処理を承認』
「へっ、やるじゃねえか。悪知恵は俺譲りだな」
親父が笑う。
私は裏口の鍵を開けた。冷気がバックヤードに流れ込む。
薄暗い路地、緑色の公衆電話の受話器がぶら下がっている。その横に、小柄な老婆が立っていた。
彼女は何も言わず、私の手から温かいマグカップを受け取る。震える両手でそれを包み込むと、深いため息をついた。
視線の先、駐輪場のフェンスには、彼女の商売道具であるリヤカー付き自転車が止まっている。そのハンドルには、色褪せた「駐輪許可証」の紙札が、麻紐で括り付けられていた。風に吹かれ、パタパタと乾いた音を立てる。
あの紙札もまた、先代の店長が勝手に発行した非公式な遺物だ。デジタルな認証社会において、あの紙切れ一枚が彼女の居場所を保証している。
「……ありがとう」
老婆はかすれた声で言い、スープを一口すすった。その顔に、微かな血色が戻る。
私は無言で頷き、彼女が飲み干すのを待った。
路地の向こう、ビルの隙間から見える空には、無数のドローンが明滅しながら飛んでいる。だが、この狭い裏口だけは、監視の目も届かないエアポケットだ。
「またな、若いの」
空になったカップを返すと、彼女はリヤカーを引いて闇へと消えていった。キィ、キィ、と錆びたチェーンの音が遠ざかる。
店内に戻り、ダストボックスをロボに戻すと、こいつはまた何食わぬ顔でウィーンと走り出した。
ふと、ロボの充電ドックの脇に、十円玉が置かれているのに気づいた。さっき老婆が置いていったのだろう。
今の時代、硬貨なんて自動販売機ですら使えない。ただの金属片だ。
それでも私はその十円玉を拾い上げ、エプロンのポケットにねじ込んだ。
「ま、チップとしちゃ上等だろ」
親父が満足げに呟く。
指先に触れる冷たい硬貨の感触は、不思議と温かいスープの記憶と繋がっているような気がした。
バックヤードには再び静寂が戻り、ただロボ清掃員だけが、誰もいない床を懸命に磨き続けていた。