定期券の有効期限、パルスに混ざる他人

──平成0x29A年05月16日 09:10

 平成0x29A年5月16日、午前9時10分。私は第14行政ブロック、新宿サービス窓口の硬いプラスチック椅子に座っていた。天井に埋め込まれたユビキタスセンサー網が、私の心拍数と発汗を読み取り、空調をコンマ数度下げたのがわかる。微かな風が首筋を撫でた。

「慎二、まだか。この磁気定期券ってやつは、何度見ても非効率だな」

 骨伝導イヤホンから、父の低い声が響く。羽柴康夫、享年六十二。建設現場での足場崩落事故で逝ってから、もう五年になる。エージェント化された父は、生前よりも少しだけ辛口になっていた。

「仕方ないだろ。このエリアの地下鉄網は、ドクトリンが『1990年代の触覚的安心感』をエミュレートするよう指示してるんだ。物理的な磁気カードじゃないと改札を通れない」

 私は手の中の、端が少し剥げかけたオレンジ色のカードを弄んだ。一ヶ月に一度、こうして窓口に来て、暗号化された磁気情報を手動で上書きしてもらう必要がある。バックエンドでは複雑なブロックチェーンが回っているはずなのに、表層ではわざわざ「磁気」を演じている。それがこの世界の安定感らしい。

「お待たせしました、羽柴様」

 窓口の職員が顔を上げた。その瞬間、窓口の奥にある重厚なスマートドアが、ガチリと重い音を立ててロックされた。警告灯が琥珀色に明滅する。

「申し訳ありません。現在、当ユニットの閣議決定プロセスが『差分調整』に入りました。全業務を一時停止します」

 またか。ランダムに選ばれた誰かが、今この瞬間に五分間だけの内閣総理大臣を務めている。彼らが「党」のアルゴリズムに対して署名を終えるまで、社会の歯車は停止する。

 その時、私のポケットの中で、旧式のガラケーを模した端末が鳴った。設定していたはずのない、単音の着メロだ。曲は……ショパンの『別れの曲』。父が死ぬ間際まで使っていた、ひどく古臭いメロディ。

「……父さん?」

 イヤホン越しの父の気配が変わった。ノイズが走る。

「慎二。……いや、羽柴慎二。リクエストID:0xAF44。承認、署名完了」

 父の声ではない。無機質な、何万人もの声を合成したような響き。だが、イントネーションの癖だけは確かに父のものだった。私の背中を冷たい汗が流れる。センサー網がそれを検知し、頭上の空調がさらに強まった。

「父さん、今なんて言った?」

「……ん? ああ、悪い。ドクトリンの同期が少し揺らいだようだ。最近、サーバーが重いからな。何の話だっけか」

 父の声が元に戻る。だが、窓口のスマートドアは解錠され、職員は何事もなかったかのように私の磁気定期券を機械に通した。彼女の瞳の奥、ARコンタクトに流れる承認ログには、先ほど「父」が口にしたIDが並んでいた。

「はい、更新完了です。来月まで有効ですよ」

 手渡された磁気定期券は、かすかに熱を持っていた。私はそれを受け取り、席を立つ。自動ドアへ向かう途中、ふと気づく。父のエージェントは定期的に倫理検査を受けているはずだ。だとしたら、今の「ゆらぎ」はバグなのか、それとも、このエージェントというシステムそのものが、内閣ユニットの演算リソースとして最初から組み込まれているのか。

 駅の改札。磁気定期券を投入口に差し込む。吸い込まれ、吐き出される、その一瞬の物理的な手応え。

「慎二、帰りに牛乳買ってきてくれ。母さんが、ホットミルクにしたいって言ってる」

 父が明るい声で言う。母のエージェントは、先週から法定倫理検査でオフラインのはずだった。私は何も言わず、ただ自動改札を通り抜けた。センサー網に見守られた街は、どこまでも平成の五月のように穏やかで、そしてどこまでも他人の気配に満ちていた。