継ぎ目の温度、夕刻の鍵
──平成0x29A年11月02日 17:00
五時を回ると、センサーダストの密度が変わる。
俺は第3居住ブロックC-7棟の設備管理員だ。築八十年の集合住宅。壁も床も天井も、見えない粒子が埋め込まれていて、温度も湿度も振動も全部吸い上げる。それがデジタルツインを作り、インフラ全体の最適化に使われる——というのが建前だ。
実際には、ツインの精度が落ちてる。
「またか」
折りたたみ携帯が震えた。画面には「3F-302号室、水道配管接合部、温度異常0.8℃」とある。微妙な数値だ。水漏れの兆候かもしれないし、ただのノイズかもしれない。
エージェントが声をかけてくる。
「見に行くのか?」
兄貴だ。正確には、兄貴だった人間の人格が移植されたエージェント。享年三十四。配管工事中の崩落事故で死んだ。俺が二十二のときだ。
「行くしかないだろ」
「まあな。けど、政策変更リクエストが来てるぞ」
「どんなやつ?」
「センサーダスト再配置計画。C-7棟の劣化センサーを一斉交換するって。予算規模は小さめ。たぶん通る」
「それ、いつ施行?」
「閣議決定待ち。まあ、早くて来月だろうな」
俺は階段を降りながら溜息をついた。来月じゃ遅い。今、水が漏れてたら、今対処しなきゃ意味がない。
三階に着くと、302号室の住人が廊下に立っていた。六十過ぎの女性で、手にコンビニの袋を持っている。
「すみません、ちょっと点検させてください」
「ああ、どうぞ。でも何もないと思いますよ」
部屋に入ると、キッチンの流し台の下に手を突っ込んだ。配管の接合部を触る。ほんのり温かい。
「やっぱり微妙に温度が上がってる。漏れてるかもしれない」
兄貴が言う。
「デジタルツインと突き合わせてみろ。ズレがあるかもしれん」
俺は携帯を開き、ツインデータにアクセスした。302号室の配管レイアウトが3Dで表示される。けど、接合部の位置が実際と五センチほどズレてる。
「ツイン、狂ってるな」
「センサーダストが古いからな。八十年も経てばそうなる」
俺は工具箱から配管用テープを取り出して、接合部を巻き直した。それから温度を測る。正常値に戻った。
「これで大丈夫です」
女性は安心したように笑った。
「ありがとうございます。でも、新しいセンサーが入るんでしょう?」
「ええ、たぶん」
「じゃあ、こういうのも減りますね」
俺は頷いたけど、内心では疑問が湧いていた。
部屋を出て、一階のコンビニに寄った。コピー機の前に立ち、政策変更リクエストの詳細を印刷する。感熱紙がゆっくり出てくる。
リクエストの提出元は「第6インフラブロック資材調達課」。党ドクトリン署名は……見覚えがある。俺でも解読できる簡易版だ。つまり、誰でも偽造できる。
「兄貴、これ本物か?」
「わからん。けど、通るかどうかは別問題だ」
「通ったとして、いつ施行される?」
「それも読めん。閣議決定は並行処理だからな。どこかのユニットが承認するかもしれんし、全部非承認になるかもしれん」
俺は感熱紙を折りたたんで、ポケットに突っ込んだ。
夕方の光が、ブロックの隙間から斜めに差し込んでいる。センサーダストが、微かに光を反射して見える。
兄貴が言う。
「お前、疲れてるな」
「そうかもな」
「倫理検査、もうすぐだぞ」
「知ってる」
「代理エージェントになったら、俺の口調も変わるかもしれん」
「……それは、仕方ない」
俺は空を見上げた。平成エミュレーションが作り出した、薄い灰色の空。
「新しいセンサーが入っても、ツインが正確になるとは限らない。結局、俺が見に行くことになる」
「だろうな」
「だったら、政策変更なんて意味ない」
「でも、誰かが承認するんだろうな」
俺は折りたたみ携帯を閉じた。画面が消える。
夕刻の鍵束が、腰のベルトで重く揺れていた。