壁越しのニッケル水素
──平成0x29A年01月28日 06:20
指先に伝わる確かな熱が、冬の早朝には心地よかった。私は充電器から単三型の充電式NiMH(ニッケル水素)電池を二本抜き取り、手の中で転がした。昨晩からセットしておいたものだ。最新の全固体電池にはない、化学反応特有の鈍重な温かみ。それが私の目を覚まさせる。
「達也、六時二十分だ。今日は資源ごみの日だぞ」
脳内で叔父さんの声が響く。私のエージェントだ。生前は町工場で旋盤を回していた叔父さんは、朝の時間にうるさい。
「わかってるよ。あと、首のこれが痒いんだけど」
「ナノ医療パッチか? 規定の投与が終わるまで剥がすなよ。肝臓の数値が悪いんだから」
私は首筋の透明なシールを無意識に掻きながら、キッチンへ向かった。棚から取り出したのは、かつて流行ったインスタントラーメンの景品である、妙に派手なキャラクターが描かれた陶器の丼だ。これにシリアルを入れて食べるのが、私の安っぽいルーティンだった。
視界の端に、赤い通知がポップアップした。
『第9居住ブロック管理組合:共有部照明の照度変更に関するブロックチェーン投票』
またか。この集合住宅は、電球一つの明るさを決めるのにも、分散型台帳による全会一致のアルゴリズムを要求する。私はスプーンを咥えたまま、空中に浮かぶ「承認」ボタンを視線入力でタップした。
その瞬間、視界がノイズで歪んだ。
『認証エラー。再接続……認証成功。権限ID:305・K・S』
え? と思った時には、部屋の空気が変わっていた。
スマートウィンドウの遮光設定が勝手に解除され、薄暗い朝の青さが室内に雪崩れ込む。壁のデジタルアートが、私の設定した「昭和の路地裏」から、幾何学的な「北欧風パターン」へと書き換わった。室温設定が二度下がる。
「おい、なんだこれ。IDがズレてるぞ」叔父さんが焦った声を上げる。「隣の部屋の権限がこっちに被ってる」
305号室。隣だ。会えば軽く会釈する程度の、愛想のない女性が住んでいるはずだ。
私の視界に、彼女の「生活」がオーバーレイされた。未読のメッセージ件数、冷蔵庫の在庫リスト、そして――デバイス管理画面。
他人のプライバシーを覗く罪悪感と共に、ある一行が私の目を釘付けにした。
『デバイス:ポータブルMDプレイヤー 状態:充電要求』
『デバイス:汎用リモコン 状態:NiMH電池電圧低下』
彼女も、使っているのか。この時代に、わざわざ重くて手のかかるニッケル水素電池を。
高効率なバッテリーがいくらでもある中で、あの放電特性と、充電器のランプが消えるのを待つ時間を愛する人間が、壁一枚隔てた向こうにいたなんて。
『照合修正。正規IDへ復帰します』
システム音声と共に、部屋は唐突に私の「昭和の路地裏」へと戻った。北欧の冷たい空気は消え、いつもの生活臭が戻ってくる。
「……危ないところだったな。セキュリティホールもいい加減にしろってんだ」
叔父さんは悪態をついたが、私はしばらく動けなかった。
ゴミ集積所へ向かう廊下で、ちょうど305号室のドアが開いた。彼女が出てくる。手には資源ごみの袋。
目が合った。いつもなら無言で通り過ぎるだけの瞬間。
だが、私の視線は彼女が抱える袋の、半透明なビニールの奥に吸い寄せられた。使い古された乾電池と、いくつかの空き缶。
「おはようございます」
私が言うと、彼女は少し驚いたように目を見開き、それから微かに口角を上げた。
「……おはようございます」
すれ違いざま、彼女からは古い機械油のような、懐かしい匂いがした気がした。
私はポケットの中で、まだ温かい二本の電池を握りしめた。その熱は、さっきよりも少しだけ、確かな質量を持って感じられた。