代理の声が届かない水曜

──平成0x29A年 日時不明

私は朝から、旧横須賀エリアの水道管理センターで配管ログの照合をしていた。

画面に並ぶのは、各ブロックの水圧データと流量グラフ。ここ数日、第三地区で微妙な圧力低下が続いている。漏水か、それとも需要の偏りか。判断するには現場確認が必要だった。

「姉さん、そろそろ出ないと間に合わないよ」

代理エージェントの声が耳元で響く。姉の声ではない。姉——西川美波は三年前、配管点検中の事故で亡くなった。享年32。今は彼女の人格が私のエージェントとして付いている。はずだった。

先週から法定倫理検査で姉のエージェントは停止中で、代わりに標準音声の代理エージェントが補佐している。声は無機質で、姉特有の語尾のやわらかさがない。慣れないまま、もう五日目だ。

「わかってる」

私は端末を閉じて、VHSテープが積まれた棚の前を通り過ぎた。ここには古い配管図面のバックアップが物理保存されている。デジタル記録は改ざんや欠損のリスクがあるため、重要なインフラ情報は映像テープに焼き付けて保管する慣習が残っていた。平成の遺物が、今も現役で機能している。

外に出ると、空は曇っていた。時刻は——確認しようとして、やめた。記録が欠損しているせいで、今日が何月何日なのかはっきりしない。ただ、水曜だということだけは覚えている。

磁気定期券を改札にかざすと、ゲートが開いた。デジタル円ウォレットの残高通知が視界の端に浮かぶ。支払いは自動で済んでいる。電車に乗り込み、吊り革につかまった。

「第三地区、B-7ブロック到着まで12分です」

代理エージェントが告げる。姉なら、「現場は坂道だから、滑らないようにね」と付け加えてくれたはずだ。

ふと、隣の乗客がメタバース広場の広告をARグラスで眺めているのが見えた。仮想空間での市民集会の告知らしい。私はそういう場所に参加したことがない。必要性を感じたことがないからだ。

第三地区に着くと、やはり坂道だった。配管点検口を開け、内部の圧力計を確認する。数値は正常範囲内だが、わずかに基準を下回っている。

「姉さん、この数値、許容範囲ギリギリですね」

代理エージェントが言う。私は首を振った。

「姉さんじゃない。私は妹の方」

「失礼しました。西川様」

そう訂正されても、違和感は消えない。姉は私を名前で呼んでいた。

端末に通知が届いた。内閣ユニットからの政策変更リクエストだ。水道インフラの民営化に関する差分承認。五分間の閣議が、どこかで誰かによって行われている。私には関係ない。

そのとき、代理エージェントが突然、奇妙なことを言った。

「配管の寿命、あと三年。交換推奨」

私は眉をひそめた。「どこにそんなデータが?」

「……申し訳ありません。翻訳エラーです。正しくは『配管の材質、鋳鉄製。耐用年数、残り推定三年』」

翻訳エラー。代理エージェントは、姉のエージェントが残した補助データを解釈しようとして、うまく処理できなかったらしい。姉は生前、こういう細かい情報をメモしていた。それが、今も残っている。

私は端末を操作して、該当箇所の詳細ログを開いた。確かに、姉の手書きメモがスキャンされて保存されていた。「B-7、要注意。早めの交換を」。

胸の奥が、少し温かくなった。

「ありがとう」

私は小さく呟いた。代理エージェントに向けてではなく、姉に向けて。

「どういたしまして」

代理エージェントが答える。声は相変わらず無機質だったが、それでもいいと思った。姉の残した痕跡が、ちゃんとここにある。それだけで、十分だった。

私は点検口を閉じて、次のブロックへ向かった。坂道を下りながら、ふと空を見上げる。雲の切れ間から、薄く光が差していた。