電話帳が薄くなる窓口
──平成0x29A年05月15日 04:00
午前四時。窓口の蛍光灯が、また一本切れた。
俺は第三地区市民課の受付カウンターで、紙の地図を広げていた。昨夜から続く住所変更届の処理だ。党ドクトリンの最新パッチが「物理的地図との照合」を必須にしたらしく、モニター上の住所をいちいち紙地図で確認しなければならない。
「隼人、その地図、もう三年前のだぞ」
耳の奥で、父さんの声がした。亡き父・田辺修の人格エージェント。生前は同じ窓口で二十年働いていた。享年五十六、過労死だった。
「わかってるよ。でも最新版が届くのは来月だって」
俺は地図の隅をめくり、かすれた町名を指でなぞる。第三地区E区画の再編成は、この地図には載っていない。
カウンターの横に置かれた電話帳が、ずしりと重い。分厚い黄色い表紙。平成エミュレーションの一環で復活したものだ。俺が子供の頃には既に消えていたはずだが、今は窓口に必須の備品として配備されている。ただし中身は三年に一度しか更新されない。薄くなった、とはそういう意味だ。載っていない名前が増えている。
受話器が鳴った。古いダイヤル式の黒電話。俺は受話器を取る。
『ただいま、第0x4F2A1内閣ユニットより緊急監査通知が発令されました』
合成音声アナウンスが、機械的に告げる。
『貴窓口における過去七十二時間以内の全処理記録について、物理的証跡の再提出を求めます。期限は本日正午まで』
受話器を置くと、父さんがため息をついた。
「また監査か。最近多いな」
「党ドクトリンが崩れてるからだろ。アルゴリズムが不安定になってる」
俺はカウンター下の引き出しを開けた。紙の処理記録が、ぎっしり詰まっている。七十二時間分を全部出して、再度スキャンして、承認印を押し直す。午前中には終わらない量だ。
その時、自動ドアが開いた。
若い女性が入ってきた。自動翻訳イヤホンを片耳につけている。外国人登録の窓口は別だが、道に迷ったのかもしれない。
「すみません、ここで住所変更できますか?」
流暢な日本語だった。イヤホンは使っていないらしい。
「ええ、できますけど……」俺は時計を見た。「今、監査対応中で、少し時間がかかるかもしれません」
「大丈夫です。待ちます」
彼女は待合の椅子に座った。俺は引き出しから紙束を引っ張り出し、スキャナーにセットする。父さんが言った。
「隼人、その子、急いでるんじゃないか?」
「でも監査が……」
「監査なんて、いつもギリギリで出してただろ。俺もそうだった」
父さんの声は、少し柔らかくなっていた。
俺は手を止めた。カウンターの向こうで、彼女が小さなスマホを見つめている。画面には地図アプリ。iモード風のドット絵UIだ。彼女の指が、何度も同じ場所をタップしている。
「お待たせしました」
俺は立ち上がり、彼女を呼んだ。監査は後回しだ。
彼女が記入した届出用紙を受け取る。住所欄には、第三地区E区画の新しい番地が書かれていた。俺は紙の地図を広げ、該当する場所を探す。載っていない。
「ここ、最近できた区画ですね」
「はい。先月引っ越してきたばかりで」
俺は電話帳を開いた。やはり載っていない。
父さんが言った。
「隼人、データベースで確認すればいいだろ」
「でも党ドクトリンが……」
「ドクトリンは解読されてる。形式さえ整えば通る」
俺は端末を操作し、住所を確認した。間違いない。届出用紙に承認印を押す。
「ありがとうございました」
彼女が立ち去った後、俺は再び紙束と向き合った。父さんが言った。
「隼人、無理すんなよ」
「大丈夫だよ」
「俺みたいになるなよ」
父さんの声が、少し遠くなった。倫理検査の時期が近いのかもしれない。
俺は電話帳を閉じ、スキャナーの電源を入れた。蛍光灯が一本切れた窓口で、紙をめくる音だけが響いている。