塵が舞う午後の承認
──平成0x29A年08月08日 16:10
蒸し暑いコンクリートの上を、陽炎が揺らめいていた。訓練場のサイレンが遠くで鳴り響き、僕の額から汗が流れ落ちる。
『翔太、体温上昇。水分補給を推奨』
網膜に直接投影される姉さんの声は、いつも涼やかだ。僕はペットボトルの水を一口飲んで、目の前のコンテナを見つめた。
最後の一個。これが通れば、今日の物資搬入訓練は完了だ。
壁に貼られた紙のカレンダーには、今日の「八月八日」に赤いマジックで大きな丸が描かれている。監督官の字だ。気合が入りすぎている。
僕がハンディ端末をコンテナの脇にある近傍通信タグにかざすと、けたたましい警告音が鳴った。
【警告:党ドクトリン署名不一致。第0x441B搬入リストとの照合に失敗しました】
「またかよ……」
思わず声が漏れる。最近、このエラーが頻発していた。
『ログを調べてみる? あなたの権限なら、タグの改ざん履歴くらいは読めるはずよ』
姉さんの冷静な声に促され、僕は端末を操作した。数秒後、履歴が表示される。
『……五分前に一度、不明なアクセスでデータが書き換えられてる。でも、すぐに元に戻されてるわね。ああ、これだ。復旧時の暗号署名が古いバージョンのアルゴリズムになってる』
「誰かが間違えて、善意で直そうとしてくれたってこと?」
『たぶんね。五分間だけ総理大臣になった人が、たまたま古いツールを使ってたんでしょう』
監督官がこちらに歩いてくるのが見えた。面倒なことになる。マニュアル通りの報告書と、内閣ユニットへの差分承認リクエスト。それだけで訓練は半日停滞する。
『このコンテナの中身、覚えてる?』と姉さんが言った。
『備蓄用のインスタントラーメンだろ。かなりの量』
『そう。昔、二人で景品のフィギュア集めたやつ』
記憶の扉が少しだけ開く。そうだ。姉さんはいつもレアなやつを当てて、僕はいつも同じやつばかりだった。
そのとき、僕の視界の隅にポップアップ通知が現れた。
【通達:あなたは第0xC3F2内閣ユニットの内閣総理大臣に任命されました。任期は現時刻より五分間です】
空中に舞うセンサーダストが、午後の光を反射してキラキラと輝いている。まるで祝福の紙吹雪みたいじゃないか、なんて馬鹿なことを考えた。
監督官が眉間にしわを寄せて僕の隣に立つ。「佐藤、どうした。早く報告を――」
『翔太』
姉さんの声が、僕の迷いを断ち切るように響いた。
『やってしまいなさい。これは災害時の特例措置。ただの訓練じゃない。本番でこんなことで時間を無駄にはできない』
僕は息を吸い込んだ。端末を操作し、閣議承認の画面を開く。議題は「第0x441B搬入リストにおける署名不一致の特例承認」。僕はためらわずに「承認」のボタンを押し、自分の生体情報で署名した。
一瞬の沈黙の後、ハンディ端末が軽やかな電子音を立てた。
【認証完了:第17防災ブロックへの搬入を許可します】
コンテナのロックが解除される音が、やけに大きく聞こえた。
監督官が呆気にとられた顔で僕と端末を交互に見ている。
『よくやったね』
姉さんの声は、少しだけ誇らしそうだった。
僕はコンテナの扉に手をかける。誰かの小さなミスを、別の誰かの小さな権限がそっと修正する。この崩れかけたシステムは、案外そういう善意の連鎖で回っているのかもしれない。
このラーメンの蓋を開けた誰かが、景品のフィギュアを見て少しだけ笑ってくれたら。そんなことを考えながら、僕は重い扉を押し開けた。