遅れてきた回覧板
──平成0x29A年11月23日 17:40
ピンポーン、と間延びしたチャイムが鳴ったとき、私はちょうどマグカップにインスタントのカフェラテを注いだところだった。
モニターに映っていたのは、知らないおばあさんだった。銀色の髪をきっちりまとめ、少し首を傾げている。たしか、三日前に隣の302号室に越してきた人だ。
『あら、莉子。出てあげなさいな』
視界の右上に、おばあちゃんのエージェントが控えめな明朝体でテキストを表示する。指先で応答パネルに触れると、かすれた声がスピーカーから聞こえてきた。
「……ごめんください。お隣の、鈴木です。回覧板、お持ちしました」
回覧板?
私の住むこの集合住宅の連絡事項は、すべてブロック内閣ユニットから直接、個人の端末に暗号化されて届く。紙の回覧板なんて、それこそおばあちゃんが生きていた時代、つまり平成の遺物だと思っていた。
『回覧板ですって。懐かしいわねえ』
「でも、今は電子通知で……」
『いいから、開けて差し上げなさい。ご挨拶が遅れたんだから』
おばあちゃんの言う通りだった。私はため息を一つついて、「今、降ります」と応えた。
窓の外では、滑るように静かな自律型バスが停留所に停まり、数人の乗客を降ろしている。そんな景色と、これから受け取るであろう紙の束とのギャップが、なんだかおかしかった。
エントランスの自動ドアが開くと、鈴木さんは申し訳なさそうにプラスチックのバインダーを抱えていた。
「すみませんね、急に。このマンション、厳重で」
「いえ……」
「それでね、ここに目を通して、次のお宅に回していただきたいの」
彼女が指差したバインダーには、色褪せた紙が数枚挟まっていた。「資源ゴミの分別について」という、先週ユニットから通知が来た内容と同じものが、かすれたインクで印刷されている。ご丁寧に、一番上にはハンコを押すためのマス目が並んだ紙まである。
「あの、こういうのって、今は全部データで……」
言いかけた私を遮るように、鈴木さんは自分のガラケーを取り出した。パカっと開いた画面は、iモードサイトを彷彿とさせる古風なデザインで、小さな文字がびっしりと並んでいる。
「ええ、存じてますよ。でもね、ほら。ここの隅っこに書いてあるでしょう?『希望者は紙媒体での閲覧も可』って。私はこっちの方が落ち着くの」
画面が小さすぎて、私には何も読み取れなかった。
バインダーに挟まれた一枚の紙が、ひらりと床に落ちた。拾い上げると、それは古い映画のチケットの半券だった。『南極物語』と印刷されている。隅に、小さなシミがあった。
「あら、ごめんなさい。昔、この町内会で観に行ったときの」
鈴木さんは懐かしそうに目を細めた。
「こういう回覧板を回しながらね、みんなでお茶を飲んだり、映画に行ったりしたもんですよ。今は、バスも勝手に走ってるし、ドアも触らないで開いちゃう。便利だけど、なんだか寂しいわね」
その言葉を聞いたとき、視界の隅で、おばあちゃんが『そうねえ、あの映画は泣いたわ』と呟いた。
私は、システムがどうとか、効率がどうとか、そういう話をするのをやめた。この人にとって回覧板は、制度ではなく、人との繋がりを確かめるための、たった一つの儀式なのだ。
「わかりました。私が次に回しておきます」
バインダーを受け取ると、鈴木さんは心底ほっとしたように微笑んだ。「ありがとう」と小さな声で言うと、ゆっくりとエレベーターホールの方へ歩いていった。
自室のドアに手をかざす。ピッという電子音と共に、量子乱数ロックが静かに解除された。
部屋に戻り、バインダーをテーブルに置く。ハンコを押す欄に、自分の名前はない。そもそも、私の次に回す家なんて、この棟にはもうないはずだ。
『どうするの、それ』
「明日、鈴木さんのポストに、そっと戻しておく」
そうすれば、この遅れてきた回覧板は、また彼女の元から旅を始められる。
『優しいのね、莉子は』
おばあちゃんの言葉に、私は少しだけ頬が緩むのを感じた。カフェラテは、すっかり冷めてしまっていたけれど。まあ、いいか。そんな気分だった。