コマンド入力は閣議に優先する
──平成0x29A年04月02日 05:40
薄暗い店内に、ブラウン管のかすかな放電音だけが響いている。午前五時四十分。フロアを徘徊する自動清掃ロボットが充電ドックに戻る、一日のうちで最も静かな時間だ。僕は使い慣れたドライバーで、対戦格闘ゲーム筐体のコントロールパネルをこじ開けた。
『そこのコンデンサ、足が寝てるぞ。ちゃんと立てとけ。接触不良の元だ』
耳元で、師匠の声がした。僕の個人的なエージェント。この店の元店長で、十年前に亡くなった山城さんの人格だ。
「分かってますよ、師匠」
僕はピンセットで慎重にコンデンサの足を調整する。彼の小言は、もはや作業の一部だった。
この『ストリートファイターII』の筐体は、常連の高校生グループのお気に入りだ。彼らは公式のメンテナンスドローンが施す画一的な調整を嫌う。だから僕は、ドローンが定期巡回に来る前に、彼ら好みの「非公式セッティング」に戻しておく必要がある。レバーの遊びを数ミリ単位で調整し、ボタンのストロークをわずかに浅くする。それがこの店の、そして僕の存在意義だった。
一息つきに、事務所のパイプ椅子に腰掛けた。壁に貼られた紙のカレンダーには、赤いマジックで「春の大会」と書き込まれ、丸がつけられている。窓の外を、朝刊を積んだ配達ドローンが音もなく横切っていくのが見えた。そろそろ、スマート空調が自動で「快適モード」に切り替わる頃だ。その前に、あと二台。
「師匠、サイトウたちが使う台のバネ、どっちでしたっけ」
『三和の固いやつに決まってるだろう。あいつらのコマンド入力は神経質なんだ。波動拳のタメが0.1秒でもずれると、すぐ文句を言いに来る』
「でしたね」
工具箱から目的のバネを取り出した、その時だった。
腕にはめた端末が、低く振動した。
【通達:第0x8C3A4内閣ユニット 内閣総理大臣に任命されました。任期は05分00秒です】
画面には、見慣れた閣議案件のリストがポップアップする。
『おい、なんか来たぞ。総理大臣様だってよ』
師匠が面白そうに囃し立てる。
僕はリストに目をやった。
『差分断片#5820: 第14地区における清掃ドローン運行プロトコルの昼夜間移行シーケンスの統一化』
『差分断片#7119: 合成タンパク質配給規格Ver4.2からVer4.3へのマイナーアップデート承認』
『差分断片#6603: 公共施設における平成期デザイン・エミュレーションのテクスチャ解像度に関する推奨値の改定』
どれもこれも、僕の知ったことじゃない。僕が今気にすべきは、サイトウの波動拳コマンドの精度だけだ。
僕は端末の通知をスワイプして消すと、筐体に向き直った。古いバネをペンチでつまみ、新しい、固いバネを慎重にはめ込む。
『おい、いいのかよ。国家の重要事案だろ』
「師匠、こっちのほうが重要です。あいつらの青春がかかってるんで」
『……ふん、言うようになったじゃねえか』
師匠の声には、どこか満足げな響きがあった。
カチリ、とレバーが小気味いい音を立てて定位置に戻る。完璧だ。これでサイトウも、今日の放課後は気持ちよく昇龍拳を繰り出せるだろう。
端末が再び振動し、任期終了を告げた。僕が承認も非承認もしなかった差分断片は、また別の誰かの五分間に委ねられる。それでいい。
ふと、店の隅に目をやる。オブジェとして置かれた緑色の公衆電話。誰かが置き忘れたのか、受話器がだらしなく外れていた。誰も応答しない電話が、この世界の本当の姿なのかもしれないな、と僕は思った。