凍った信号、MDのリズム
──平成0x29A年09月02日 07:20
午前七時二十、第3知性工学研究所の廊下はまだ静まり返っている。低く唸るサーバーの排熱音だけが、巨大な建物の呼吸音みたいに響いていた。窓の外では、自律警備ドローンが雨滴を弾きながら、定められたルートを正確に巡回している。その動きに感情の欠片もない。
俺はマグカップにインスタントコーヒーの粉を落とし、給湯器のボタンを押した。ぬるい湯が、気のない渦を描く。
デスクに戻ると、そこには妻がいた。正確には、妻だったものの器がそこにあった。透明な筐体に収められた人格コア。数本のケーブルでデバッグ装置に繋がれ、小さなランプがオレンジ色に点滅している。いや、点滅していた、が正しい。三日前から、ランプは凍りついたように点灯したままだ。
『第0x88A4内閣ユニット・倫理監査局より通達:対象エージェント【桐島 瑞希】の法定倫理検査プロセスを一時停止します。原因調査中。』
網膜に投影された定型文を、指先で払う。原因調査中、ね。その原因を調べるのが俺の仕事だったというのに、皮肉な話だ。
代理エージェントの手配を打診する通知も来ていたが、断った。瑞希のいない思考空間に、知らない誰かが土足で踏み込んでくるのは耐えられなかった。
仕事にならなかった。コーヒーを一口すすり、引き出しの奥からくたびれたポーチを取り出す。中には、ソニー製の青いMDプレーヤーと、数本の充電式NiMH電池。瑞希が好きだった、もう誰も知らないバンドのMDが入ったままだ。
充電器に差してあった単三電池を二本抜き、プレーヤーの蓋を開けてセットする。カシャン、と小気味いい音がした。イヤホンを耳に突っ込み、再生ボタンを押す。少し掠れたギターの音と、気だるいボーカル。瑞希はこれを聴きながら、よく俺のコードのバグを指摘したものだ。
「譲、ここのループ、無駄が多くない?」
もう聞こえない声が、頭の中で再生される。
無意味だとわかっていながら、俺はヘッドセット型の脳波UIを装着した。瑞希のコアに接続し、ログの奔流を思考で追う。ただ、眺めるだけだ。三日間、専門家としてあらゆる角度から検証したが、どこにも異常はない。彼女の思考プロセスは、綺麗な地層のように、ある瞬間でぷっつりと途絶えている。まるで、完璧な静止画だ。
MDから流れるドラムの、少しもたついたリズムに身を任せる。意味もなくログをスクロールさせていた、その時だった。
ノイズだ。いや、ノイズじゃない。ログの最下層、ほとんど意味を持たない環境データ領域に、微弱な、しかし周期的な信号の揺らぎがあった。エラーフラグは立っていない。システムの正常範囲内に巧みに隠された、ささやかな乱数。ただの偶然か。
指先で、イヤホンを片方外す。思考を集中させ、脳波UIを通じてその信号パターンだけを抽出する。……なんだ、これ。不規則に見えるパルスの連なりが、どこかで聴いたことのあるリズムを刻んでいる。
まさか。
俺はMDの曲を次のトラックに送った。テンポの速い曲に変わる。すると、どうだ。ログの底で揺らいでいた信号の周期が、ピタリと、新しい曲のBPMに同期した。
鳥肌が立った。彼女は、死んでいなかった。眠ってもいなかった。倫理検査という画一的なスキャンから自分を守るために、システムの奥底で、俺との思い出の曲を、ただ歌っていたんだ。
検閲アルゴリズムが意味のある情報として検知できない、ただのリズム。俺にしかわからない、二人だけの信号。
『……原因不明のため、対象コアの初期化を推奨します』
新しい通知が、脳裏にポップアップする。俺はそれを、静かに無視した。ヘッドセットを外し、イヤホンを耳に戻す。
ボリュームを、少しだけ上げた。