夜のコピー機と、喉の渇き

──平成0x29A年12月05日 03:30

午前三時半、観光案内ブースのシャッターを上げると、リモート診療端末の緑ランプが点滅していた。

「メンテナンス予約が入ってます」

弟の声だ。享年二十九、心筋梗塞。六年前に逝った。今は俺のエージェントとして、こうして耳元で囁く。

「後回しでいい」

俺は端末の電源を落とし、ブース奥のコンビニへ向かった。深夜営業のここは、観光客向けというより、内閣ユニット補佐業の下請けが集まる場所だ。時間貸しCPUの端末が三台並び、誰かが黙々とキーを叩いている。

缶コーヒーを手に取ろうとしたとき、ポケットが震えた。

「政策変更リクエスト、承認待ちです」

弟の声が続ける。

「第0x4A29F内閣ユニット、総理任期開始まで三分。対象は『第14観光ブロック・夜間案内所リモート診療端末の常時稼働義務撤廃』」

またか。

俺は缶を棚に戻し、コピー機の前に立った。リクエスト文書を印刷しないと閣議システムが受け付けない。平成エミュの名残で、こういう手続きが残っている。

コピー機は古い。液晶パネルにiモード風のアイコンが並び、紙幣投入口の横にFeliCa端末が増設されている。俺はカードをかざし、文書を出力した。

A4一枚。要点だけ読む。

「診療端末の稼働電力が観光案内ブースの月次予算を圧迫。夜間帯の利用実績は過去三年でゼロ。電源オフを提案する」

妥当だ。

だが、弟が続ける。

「党ドクトリン署名が必要です。アルゴリズムに照会中――」

三秒後、結果が返ってきた。

「署名不整合。非承認を推奨します」

そうか。

俺は印刷された文書の裏に、ガス検針票が貼り付いているのに気づいた。誰かが使い回したのだろう。検針日は「平成0x29A年11月28日」。請求額は三桁。この辺りのブロックは、ガスも電気も薄く配給されている。

「兄貴、どうします?」

弟の声に、少し焦りがある。

「非承認でいい」

俺は端末に指紋を押し当てた。画面に「閣議決定:非承認」の文字が浮かぶ。五分の任期が終わる前に、もう一件、別のリクエストが流れてきた。読まずに非承認を選んだ。

ブースに戻ると、診療端末の緑ランプが消えていた。おそらく別のユニットが電源管理の最適化を通したのだろう。俺が非承認にした文書は、誰かが別の形で通す。そういうものだ。

コンビニで買った缶コーヒーを開けた。ぬるい。

「兄貴」

弟の声が、少し遠い。

「なんだ」

「喉、渇いてませんか」

俺は何も答えず、缶を傾けた。液体が喉を通り、胃に落ちる。その感触だけが、確かだった。

外では、誰かが時間貸しCPUを借り、次の五分間のために署名を解読している。