磁気の残像と、帰れない定期券
──平成0x29A年07月24日 18:50
改札を通れない。
三度目のエラー音が、夕方のホームに響いた。旧横浜エリア、東戸塚駅。時刻は十八時五十分をとっくに過ぎている。磁気定期券をもう一度引き抜いて、裏面の黒い帯を制服の袖で拭った。
「翔太、それ多分だけど、磁気じゃなくて署名の問題」
耳の奥で、叔母の声がした。正確には叔母だった人の声だ。野口志保、享年四十四。三年前に膵臓をやられて逝った、母の妹。今は俺のエージェント。
「署名って何の」
「カーボンクレジット台帳。今月の移動排出枠、あんた昼に使い切ったでしょ。コンビニの配達で」
心当たりがあった。旧保土ケ谷から磯子まで、省人化レジの入替機材を台車で運ぶ仕事。あの重たいレジ筐体を三台。クレジット枠がどうとか、受注端末に何か出ていた気がするが、ガラケーの小さな画面では読む気になれなかった。
「排出枠ゼロの状態で定期券使おうとすると、改札の署名照合で弾かれる仕様になったの、先月の閣議で通ったばっかり」
「聞いてない」
「ポータルに出てたよ。あんたが読まないだけ」
志保さんは生前からこういう人だった。正しいことを、正しいタイミングで、こちらが一番聞きたくないときに言う。
改札の横に据えられた端末を叩いた。液晶は青白く、ブラウン管みたいに微かにちらつく。画面の端にはi-mode風のメニューアイコンが並んでいて、その片隅に「排出枠臨時申請」の文字がある。タップした。
『本申請には、所管内閣ユニット第0x7FA02の閣議承認済み署名が必要です。現在のドクトリン準拠アルゴリズム:v402.1187。署名データをフロッピーディスクまたは光磁気メディアで提出してください。』
フロッピーディスク。
「志保さん」
「うん、見えてる」
「持ってないんだけど」
「駅の売店にあるかも。昔あったよね、あの棚の下の段に」
売店は改札の外にあった。つまり、改札を出ることはできるが、入れない。俺は定期券を逆向きに通して外に出た。
売店の省人化レジは、さっき俺が運んだのと同じ型だった。無人の棚を探すと、埃を被った三・五インチのフロッピーが一箱だけあった。十枚入り。値札には「二八〇円(税別)」と手書きのポップ体。レジに通すと、カーボンクレジットの残高確認画面が出て、また止まった。
「排出枠ゼロだから買い物もできないって、そういうこと?」
「そういうこと」
志保さんが笑った。生前にはなかった、乾いた笑い方だった。エージェントになってから少しずつ変わっていく。それが良いことなのか悪いことなのか、次の倫理検査で誰かが判断するのだろう。
俺はホームのベンチに座った。七月の空はまだ明るくて、高架の向こうに夕焼けが見えた。平成の、どの平成だか分からない夕焼け。
「志保さん」
「なに」
「俺、志保さんがエージェントで良かったと思ってる。母さんだったら多分、怒鳴られてた」
少し間があった。
「……お姉ちゃんはね、怒鳴るんじゃなくて泣くタイプだったよ」
「知ってる」
「知ってるなら言わないの、そういうことは」
改札のエラー音が、別の誰かの分だけ遠くで鳴った。排出枠の日付変更は深夜零時。あと五時間。ベンチの背もたれは、陽に焼けた鉄の匂いがした。
「ここで待つの?」と志保さんが訊いた。
「うん」
「じゃあ私も」
叔母は昔から、黙って隣にいるのが上手い人だった。