ドクトリンの穴埋め、承ります

──平成0x29A年12月06日 13:50

「それで、その……サブスクとやらは、本当に解約できるんでしょうか」

目の前の老婆が、震える声で尋ねる。机を挟んだ向かい側、使い古された合成皮革のソファに、その身は沈み込むように小さく見えた。

俺は黙って頷き、半透明な筐体のデスクトップ端末に視線を戻した。画面には、彼女の息子さんが契約したという『永年ライフサポート・プレミアム』の条項が、明朝体でびっしりと表示されている。
『本契約は第402ヘゲモニー期党ドクトリンver.4.2.18に基づき、永続性が担保されます』
ああ、またこの手のやつか。

『カモがネギ背負って、とはこのことだな、浩介』

耳元で、死んだ叔父の声が囁く。俺だけに聞こえる、パーソナル・エージェントの声だ。生前は口八丁でいくつもの会社を渡り歩き、最後は詐欺でパクられて塀の中で死んだ、どうしようもない男だったが、その抜け目なさは人格データを移植されても健在らしい。

「問題ありません。ただ、少しばかり正規ではない手順を踏むことになりますが」

俺は澱みなく答える。事務所の隅には、業務用の分散ストレージにアクセスするための無骨なサーバーが低い唸りをあげていた。
壁には来年の干支が印刷された紙のカレンダー。もう師走だ。

「正規でなくても、構いません。年金だけでは、あの支払いはもう……」

老婆は顔を覆った。彼女の傍らには、アンテナを伸ばした旧式の携帯端末が置かれている。サブスクの決済通知は、今でもああいうデバイスに届く。

俺は端末の横に積まれた乾電池の山から、単三を二本手に取った。引き出しから取り出した手のひらサイズの計算機にそれをセットすると、液晶に意味のない数字の羅列が明滅する。

『今日の鍵はもう出回ってる。さっさと片付けちまえ』

叔父が急かす。俺はいくつかの闇フォーラムを巡回し、今日の「党ドクトリン署名」を無効化するためのハッシュ値をコピーした。それを計算機に転送し、エンターキーを叩く。

ピッ、と短い電子音が鳴り、十六桁のコードが生成された。

「奥さん。あなたの携帯で、サービスの解約ページを開いてください。そして、この数字を『ご意見・ご要望』の欄に打ち込むんです」
「こ、ここに……? ただの数字を?」
「ええ。システムの『穴』みたいなものです。すぐに」

老婆は言われた通り、おぼつかない指でボタンを押し、コードを打ち込んでいく。その姿を眺めながら、俺は思う。そもそも、党ドクトリンの暗号アルゴリズムなんてものは、とうの昔に裸にされている。誰もがそのことを知っているのに、誰もそのシステム自体を止めようとはしない。ただ、綻びを繕うか、俺のようにその穴を利用して小銭を稼ぐだけだ。

やがて、老婆の携帯が軽やかな着信音を鳴らした。
画面を覗き込んだ彼女の目が、かすかに見開かれる。

「あ……『ご解約を承りました』って……」

何度も頭を下げる老婆からコンサル料を受け取り、ドアまで見送る。一人になった事務所で、俺は受け取った紙幣を数え、その一部を机の引き出しにしまった。中には、今日の稼ぎで仕入れたばかりの、新品の乾電池がぎっしりと詰まっている。

『いい商売だろ? システムってのはな、浩介。完璧なままじゃ、俺たちみたいな人間は食っていけねえんだよ』

叔父の声が、やけに楽しそうに響いた。
俺は答えず、壁のカレンダーに目をやる。十二月六日。年末の解約ラッシュは、まだ始まったばかりだ。