地下二階、ブラシの回転音が止むとき
──平成0x29A年11月05日 18:50
足元で不規則な衝突音が響いている。円盤型のロボ清掃員が、配管の根元に何度も突っ込んでは、方向転換を繰り返しているのだ。こいつのセンサーは三世代前の規格品で、湿気た地下室では誤作動ばかり起こす。
「健一、また詰まってるわよ。助けてあげなさい」
脳内の骨伝導インカムから、姉さんの声がした。享年四十五、元経理事務。僕の専属エージェントになって五年が経つが、小言の多さは生前と変わらない。
「放っておけよ。どうせ誰も見に来ない」
僕はパイプ椅子に深く沈み込み、デスクの上のブラウン管テレビを眺めた。画面の四隅が丸く切り取られたその箱の中では、ノイズ混じりの画質で往年のバラエティ番組が再放送されている。第12水利ブロックの地下放水路管理室。ここにあるのは、壁一面の水圧計と、湿ったコンクリートの臭い、そして時代に取り残された僕たちだけだ。
その時、視界の中央に赤い警告色が割り込んだ。
『認証:第0x9F2A内閣ユニット・総理大臣権限を付与』
『任期:00:05:00』
「げっ」
思わず声が出た。ランダム選出の貧乏くじだ。数十万ある並列内閣の一つを、たった五分間だけ任される。よりによって、カップ焼きそばにお湯を入れた直後に。
「あら、おめでとう総理。しっかり働きなさい」姉さんは楽しそうだ。
目の前に仮想ウィンドウが雪崩のように展開される。閣議決定待ちの案件リストだ。国を左右する重大事など末端のユニットには回ってこない。並んでいるのは、どこかの自治体の些末な「差分リクエスト」ばかりだった。
一件目。『第9居住区・町内会掲示板の設置場所変更承認の件』。
「却下だ」僕は即答する。「あそこの角は風通しが悪い。回覧板が湿気る」
「健一、私情を挟まない。でもまあ、あそこの田中さんは掲示物を貼るのが下手だから、デジタルサイネージ化の予算を付けてあげたら?」
「面倒だ、現状維持。承認」
ハンコのような電子署名を弾く。次。
二件目。『産業廃棄物処理に伴うカーボンクレジット台帳の記載ミス修正』。
「数字が合わないわね」姉さんが瞬時に指摘する。「貸方と借方のバランスがおかしい。再計算要求で差し戻しなさい」
「へいへい」
焼きそばの湯切り時間が迫っている。僕は姉の指示通りに処理を流した。
残り時間三十秒。最後の一件が表示される。
『自律型清掃ユニットの行動アルゴリズムにおける「奉仕精神」パラメータの微調整』。
申請元は、どこかの家電メーカーの遺産管理組合らしい。
「承認、承認! なんでもいいからもっとマシに動くようにしてくれ」
僕は足元のポンコツを一瞥しながら、投げやりな署名を叩き込んだ。
『任期満了。権限を解除します』
赤い光が消え、視界がクリアになる。ブラウン管の中では、芸人が泥の中に頭から突っ込んでいた。湯切りには少し遅れたが、まあ許容範囲だろう。
「お疲れ様、総理大臣」姉さんがくすくす笑う。
ソースを混ぜようと箸を割った、その時だった。
足元の衝突音が止んだ。
ロボ清掃員が、滑らかな動きで僕の足元へ忍び寄ってくる。そして、何の前触れもなく、高速回転するブラシを僕の安全靴に押し当ててきた。
「うわっ、なんだ!?」
足を引いても、執拗に追いかけてくる。右足、左足、また右足。まるで忠犬が主人の帰還を祝うかのように、あるいは過剰なまでの「奉仕精神」を発揮するかのように、猛烈な勢いで泥汚れを削り取っていく。
「あら、健一。あなたの署名、即時反映されたみたいね」
「痛い痛い! 磨きすぎだ! やめろ!」
地下二階の密室で、僕は五分前の自分が決めた法案に追い回され、焼きそばの容器を抱えて逃げ惑った。靴はピカピカになったが、麺はすっかり伸びきっていた。