年末の避難経路と、宙ぶらりんの署名

──平成0x29A年12月29日 09:20

 高層農業プラントの第七十二層、水耕レタスの列が整然と並ぶ通路の真ん中で、私は電話帳を広げていた。

 紙の電話帳。五十音順に並んだ名前と内線番号が印刷された、A4を二つ折りにしたやつ。プラント棟ごとに毎年刷り直される。十二月二十九日、年末の避難訓練。通信系を故意に落として、全フロアの作業員が紙の連絡網だけで避難完了できるかを検証する。私の仕事は、この訓練の進行管理だった。

「お母さん、七十二層の東側、排煙ダクトの開放確認は終わってる?」

 右耳のエッジAI端末が低く唸った。プラント内は外部回線を遮断してあるから、エージェントはローカル処理だけで動いている。

「終わってるわよ、千鶴。八時五十五分に完了。でもね、あの排煙口、ちょっとサビが——」

「うん、わかった。後で報告書に入れる」

 母のエージェント。安田真弓、享年五十一。三年前、このプラントの冷却系メンテナンス中に転落した。同じ建物で働いていて、同じ建物で死んだ。エージェントになった母は、生前と同じようにプラントの設備を気にする。排煙口のサビなんて、訓練の本筋には関係ない。でもそういうところが、母だった。

 九時二十分。通信遮断から三十分が経っている。

 電話帳の三ページ目、第七十二層担当の名前に赤ペンでチェックを入れていく。ハナマル印刷のボールペン。キャップ式の、百円くらいの。インクがかすれるたびにキャップの裏で先を拭う。訓練中は端末の記録機能も制限されるから、紙とペンだけが頼りだった。

 腰のポケットでポケベル型の受信機が震えた。訓練用の旧式デバイスだが、プラント内専用の低周波回線だけは生きている。

『第0x7A2F1内閣ユニット 臨時閣議通知 安田千鶴 任期09:18—09:23』

 また来た。三ヶ月ぶりくらいか。

「お母さん、閣議」

「見えてるわ。政策変更リクエスト、二件ね」

 エッジ端末の小さな画面に、差分断片が表示された。一件目は水耕プラントの排水基準改定。二件目は災害時の通信遮断訓練の頻度変更。どちらも軽微な修正だった。

 母が読み上げる。「一件目、承認で問題ないわ。排水の閾値が〇・三パーセント下がるだけ。二件目も——あら」

「何」

「署名のハッシュ、末尾四桁が合わないの。党ドクトリンの認証鍵、先月の更新分が反映されてない」

 私は電話帳から目を上げた。レタスの青い光が顔に当たる。

「通るの?」

「通すだけなら通せるわよ。末尾四桁のズレなんて、今どき誰も突っ込まない。アルゴリズム自体がもう——」

「わかってる」

 わかっている。ドクトリン署名がほぼ形骸化していることくらい、プラントの水耕技師にだってわかる。私の通帳——給与振込用の磁気通帳、信金の窓口でしか記帳できないやつ——に毎月入る生活保障費だって、どの内閣ユニットの誰が承認したのか、誰も追えない。追う意味がない。

 でも、不整合は不整合だ。

「非承認にして」

「いいの? 差し戻すと再提出まで四十日かかるわよ」

「訓練頻度の変更でしょ。四十日遅れても誰も困らない」

 母は少し黙った。それから「そうね」とだけ言った。

 九時二十三分。任期終了の通知がポケベルに届いた。

 私は電話帳に視線を戻し、次のチェック欄に赤ペンを走らせた。インクがまたかすれた。キャップの裏で拭って、書き直す。レタスの列は静かに揺れていた。排煙ダクトの向こうから、階下の避難完了を告げるホイッスルの音が、水の匂いと一緒に昇ってきた。

 年末だな、と思った。それだけだった。