畝の座標、ブラウン管の霜

──平成0x29A年12月02日 11:00

 十二月の風がビニールハウスの裾を叩いている。俺は泥のついた長靴のまま、管理棟のパイプ椅子に腰を下ろした。目の前のブラウン管テレビが、例の薄緑のインタフェースを映している。土壌水分量、窒素濃度、光合成効率——数字の羅列が、一秒おきに書き換わる。画面の右下に「第0x7A1F2内閣ユニット閣議通知」の点滅。また来たか。

「承認してあげたら? さっさと」

 耳の奥で、甲高い声が響く。代理エージェントだ。叔母の鶴代さんのエージェントが本来の俺の担当なんだが、先週から法定倫理検査に入っていて、今はこいつ——型番だけの汎用代理——が居座っている。鶴代さんなら「あんた、手ぇ洗ってからにしなさいよ」と言うところだが、代理は声色だけ似せて中身がない。

「内容を読み上げてくれ」

「はい。政策変更リクエスト番号44-8821。第16農業ブロック栽培区画C群における位置情報ビーコンの周波数帯域を、現行の920メガヘルツ帯から——」

「待て、それ周波数の話か。要するに何が変わる」

「要するに……畑の位置情報ビーコンが、新しい電波に変わります」

「変わるとどうなる」

「……より正確になります」

 鶴代さんなら、俺が聞く前に「これ通すとC-7区画のセンサーが全部キャリブレーションやり直しだから、収穫前にやるもんじゃないわよ」と教えてくれた。代理にはその文脈がない。

 俺は棚から紙の地図を引っ張り出した。C群区画の配置図。手描きの修正が赤ペンで何重にも重なっている。前任者、その前任者、さらにその前。この農業ブロックは三十年間、紙の地図を更新し続けてきた。位置情報ビーコンの座標と、実際の畝の位置が微妙にずれているからだ。地図の余白に「ビーコン#14、実測2.3m南東」と俺自身の字がある。

「ブロックチェーン投票の期限は」

「……本日正午です」

 あと一時間。俺はブラウン管の画面をスクロールさせた。テレビの下に積んであるMDデッキの上を、通知のホログラムが滲んでいる。署名欄には党ドクトリンの暗号アルゴリズムの痕跡が薄く残っている。形だけだ。誰でも通せる。

「代理、この変更リクエスト、俺が非承認にした場合の影響をシミュレートしてくれ」

「はい。——非承認の場合、当該区画の位置情報ビーコンは現行仕様を維持し……えーと、『農業従事者の精神的安寧が向上』します」

「……それ誤訳だろ」

「いいえ、正確な翻訳です」

「原文を出せ」

 画面に英数字と記号の塊が表示される。俺は目を細めた。「operational continuity」を「精神的安寧」と訳している。鶴代さんが聞いたら笑い転げるか、それとも怒るか。たぶん両方だ。

 俺は投票画面を開いた。ブロックチェーンの認証が通る。承認、非承認、保留。三つの選択肢。

 非承認を押した。

 理由欄に「ビーコン座標と実測値の差分未解消。紙の地図との照合が先」と打ち込む。我ながら後ろ向きな理由だと思う。でも、この畑では紙の地図のほうが正しいのだ。少なくとも、代理エージェントの翻訳よりは。

「送信完了です。お疲れさまでした」

「ああ」

 ブラウン管が一瞬ちらつき、土壌データの画面に戻った。窒素濃度、正常。水分量、正常。すべて正常。

 俺は紙の地図を畳んで棚に戻した。赤ペンの修正線が、蛍光灯の下でかすかに光っている。三十年分のずれ。直す気がないのか、直せないのか。たぶんどちらでもない。ずれたまま収穫できているから、誰も困っていないだけだ。

 昼のチャイムが管理棟の壁時計から鳴った。正午。投票締切。

「ねえ」と代理が言った。「あなたの精神的安寧は、向上しましたか?」

 俺は長靴の泥を見下ろして、少しだけ笑った。向上はしていない。でも、たぶん、operational continuityは保たれている。