照合エラーの夏、あるいは書き換えられた背番号
──平成0x29A年07月28日 10:30
午前十時三十分。スマートグラスの縁から滴った汗が、鼻の頭で不快な熱を持って弾けた。
私は第十四区画、駅前立体駐輪場のスロープにしゃがみ込み、自動搬送機のセンサーを磨いている。平成エミュレート方針に基づき、この駐輪場はわざわざ「人の手による管理」の余白を残して設計されている。ハンドルに括り付けられた、日焼けして丸まったピンク色の紙札が、熱風にパタパタと音を立てた。
『幸一、手が止まってるぞ。生成AI校正から「作業効率に論理的欠陥あり」って通知が来てる。もっとキビキビ動け』
視界の右隅、叔父の芳夫さんの人格エージェントが、現役時代の警備員制服姿で腕組みをしていた。享年六十五。心臓を悪くして死ぬまで、彼はこの街の「秩序」を守ることに執着していた。エージェントになってもその規律正しさは変わらない。
「わかってるよ。でも、この紙札の番号とシステムのIDがさっきから一致しないんだ」
スマートグラスに透過表示される管理データと、目の前の自転車に付けられた「0862」という手書きの数字。何度スキャンしても、システムは「該当個体なし」と赤く点滅する。アルゴリズムが弾き出した最適解は「不審物として破棄」だが、現物は確かにそこにある。
その時、腰に下げたポケベルが、耳を劈くような電子音を上げた。今どき緊急連絡用の物理端末を支給されているのは、我々のようなインフラ末端の保守員だけだ。液晶画面には『0x8C2 SOURI』の文字。
「……おい、嘘だろ。就任しちまった」
第0x8C2内閣ユニット、内閣総理大臣就任。五分間の絶対権限。周囲の風景が、一瞬だけ党ドクトリンの暗号署名コードに埋め尽くされる。私は反射的に、目の前の「照合エラー」を無理やり承認しようと、空中に指を走らせた。総理権限なら、こんな小さな矛盾の修正など造作もない。
だが、署名画面に表示された「私」の遺伝子プロファイルを見て、指が止まった。
そこには「真田幸一」という名はなかった。代わりに、皇室遺伝子ネットワークの深層階層を示す、見たこともない複雑な紋章と、暗号化された十六進法の文字列が並んでいた。私は私ではない「誰か」として、このユニットの頂点に立っている。
『幸一、どうした? 早く承認して次に行け。時間がもったいない』
芳夫さんの声が、どこか遠く、ノイズ混じりに聞こえた。私は震える手で、その「身分不明の署名」を確定させた。駐輪場のゲートが開き、エラーは消滅した。同時に、五分が過ぎた。
スマートグラスの通知が消え、いつもの蒸し暑い駐輪場に戻る。ポケベルは静かになり、生成AIは「全ての業務は正常に完了しました」と、完璧な報告書を書き上げていた。
私は、さっきまで「0862」と書かれていたはずの紙札に目を落とした。
そこには、私の指紋に混じって、全く別の番号が印字されていた。私の職員番号でも、自転車の管理番号でもない。それは、先ほど署名画面で見た、あの忌まわしい十六進法の文字列の末尾と、完全に一致していた。
芳夫さんは、満足げに頷いて消えていった。だが、私は自分の手のひらを見つめたまま動けない。
この駐輪場に、私は本当に「保守点検」に来たのだろうか。それとも、私が「点検」されるべきエラーそのものだったのだろうか。