信号の欠け、テープの熱

──平成0x29A年12月08日 17:10

俺は公園の縁に座り、ウォークマンのヘッドホンを耳に当てた。

第15公共空間ブロック、夕暮れの児童公園。滑り台の隣にあるベンチが俺の持ち場だ。公園設備の微小点検員、といっても大半は何もない。近傍通信タグの読み取りエラーを拾って歩き、壊れた遊具や散水栓の異常を記録する。それだけの仕事。

「健太郎、そのウォークマン、またテープ絡んでるわよ」

声が聞こえた。母さんだ。正確には、母さんだったエージェント。享年53、胃がんで逝った。生前は俺に小言ばかり言ってたが、死んでからも変わらない。

「わかってる」

俺は軽く返事をして、カセットテープを取り出した。90年代のJ-POP、誰かが公園のベンチに置き忘れていったやつだ。拾ってから三日、巻き戻しと再生を繰り返している。音はくぐもっているが、それがいい。

母さんのエージェントが視界の隅に警告を映す。

『近傍通信タグ#K-0487、応答遅延0.8秒。インフラ差分リクエスト提出を推奨』

またか。今日で三件目だ。俺はため息をついて立ち上がり、公園の中央にある水飲み場へ向かった。蛇口の根元に埋め込まれたタグが、わずかにチカチカと点滅している。

「これ、配線の劣化ね。早めに出しといたほうがいいわよ」

母さんの声が耳の奥で響く。俺は頷いて、携帯端末を取り出した。画面は古いiモード風のUI、文字入力はテンキー。平成エミュの名残だ。

差分リクエストのフォーマットを開く。現行設備との差分を記述し、優先度を選び、内閣ユニットに送信する。ただそれだけのはずなのに、今日は送信ボタンが反応しない。

「……おかしいな」

何度タップしても、画面がフリーズしたまま動かない。俺は端末を軽く叩き、再起動をかけた。が、立ち上がったのは見慣れない画面だった。

『第0x29A内閣ユニット #4A2F、暗号署名プロトコル更新中。一時的に差分受付を停止しています』

「更新? こんな時間に?」

母さんのエージェントが即座に補足する。

「党ドクトリンのアルゴリズム更新ね。半期に一度あるやつよ。でも今回、通知なかったでしょ」

その通りだ。いつもなら一週間前に告知がある。それが今回は何もなかった。

俺はウォークマンを止め、ヘッドホンを首にかけた。公園の向こうで、街灯が一つ、また一つと点灯していく。その光がわずかに明滅している。電圧が不安定なのかもしれない。

ポケットに手を入れると、ナノ医療パッチが指先に触れた。昨日、配給所でもらったやつだ。微細な炎症を検知して自動投薬するパッチで、貼るだけで済む。でも、俺はまだ使っていない。なんとなく、貼るタイミングを逃している。

「健太郎、そのパッチ、期限あるんだからね」

母さんの声が少し焦っている。いつもより語気が強い。

「わかってるって」

俺はパッチを取り出し、左腕の内側に貼った。ひんやりとした感触が肌に広がる。数秒後、パッチの縁が淡く発光した。正常に動作しているらしい。

ふと、母さんのエージェントが沈黙した。いつもなら次の小言が飛んでくるはずなのに、何も聞こえない。

「……母さん?」

返事はない。視界の隅に表示されていた母さんのアイコンが、灰色に変わっている。

『エージェント接続が一時中断されました。復旧まで待機してください』

俺は端末を見つめた。画面には何の説明もない。ただ、灰色のアイコンだけが静かに点滅している。

公園の水飲み場のタグも、まだチカチカと光っている。差分リクエストは送れないまま、俺の手元にある。

俺はウォークマンを再生した。テープが回り始め、くぐもった歌声が耳に流れ込んでくる。歌詞は聞き取れない。ただ、ノイズと旋律が混ざり合って、夕闇に溶けていく。

街灯の明滅が、少しずつ速くなっている気がした。

俺はベンチに座り直し、ウォークマンを握りしめた。母さんの声が戻るまで、ここで待つしかない。

でも、戻るのだろうか。

その問いに、誰も答えてくれなかった。