巻き戻せないテープ
──平成0x29A年 日時不明
カセットデッキの再生ボタンを押すと、祖母の声が流れてくる。
正確には祖母ではない。祖母の人格を移植したエージェントが、カセットテープの音声帯域に圧縮されて出力されているだけだ。でもあたしにとっては祖母の声だった。
「あんた、また朝ごはん抜いたでしょう」
ラジカセのスピーカーから響く声は、少しだけ高域が割れている。あたしは返事の代わりに冷蔵庫からヤクルトを取り出して、アルミの蓋をぺりっと剥がした。
「それ、朝ごはんとは言わないよ」
「知ってる」
あたしの名前は小沢ちひろ。二十三歳。遺伝子ネットワーク保守の末端作業員。具体的には、各地区の中継ノードに保存されている遺伝子マーカーの定期照合を担当している。照合自体は自動だけど、エラーが出たときの物理メンテナンスは人の手がいる。今日はその出張日だった。
支度をしながら、あたしはラジカセの隣に置いたiモード端末を開く。二つ折りの液晶に、今日の作業指示が届いていた。
第7A地区、中継ノード12。マーカー照合率が閾値を下回っている。現地確認と再キャリブレーション。
端末の下半分にはストリーミングの音楽プレーヤーが常駐していて、小さなプログレスバーがゆっくり動いている。椎名林檎の曲がイントロだけ再生されて、通信が詰まって止まる。いつものことだ。
「ちーちゃん、傘」
祖母——エージェントが言う。ラジカセの横に並んだミニコンポのデジタル表示が、天気予報のテキストを流していた。午後から雨。
「ありがと、ばあちゃん」
玄関でスニーカーのかかとを踏みながら折りたたみ傘をバッグに突っ込む。ラジカセの電源は切らない。祖母は家にいるときはずっとここにいる。外出時はポケベル経由で簡易メッセージだけ届く。
自転車で二十分。中継ノード12は、古い団地の給水塔の中にあった。
鉄の扉を開けると、薄暗い室内にサーバーラックが三本。壁にはびっしりとケーブルが這っている。天井近くの換気扇が、かたかたと季節外れの音を立てていた。
端末を接続して照合ログを引き出す。エラーの原因はすぐわかった。マーカーデータの一部が、上位の暗号署名と噛み合っていない。ドクトリンのアルゴリズムが吐く認証キーが、微妙にずれている。
最近こういうのが多い、とあたしは思った。
再キャリブレーションの手順書を開く。手順の末尾に、小さな注釈があった。「本手順は第402ヘゲモニー期・党ドクトリン準拠。署名不一致が継続する場合は上位報告のこと」。
上位報告。したことがない。したところで、誰が受け取るのかもよくわからない。
手動でマーカーを再登録していく。ひとつひとつの遺伝子断片は匿名化されていて、誰のものかはあたしにはわからない。ただ、このネットワーク全体がゆるやかにひとつの系譜を保っていることだけは、研修で教わった。何の系譜かは、聞いたけど忘れた。
作業を終えて外に出ると、空は予報どおり曇っていた。ポケベルが震える。
「おつかれ。はやくかえっておいで」
祖母からだった。カタカナ混じりの短いメッセージ。ラジカセの前で、あの少し割れた声が待っている。
自転車を漕ぎ出して、ふと気づく。
さっきの中継ノード、再キャリブレーションは通った。署名は一致した。でも——あたしが手動で合わせたということは、元の署名のほうがずれていたということだ。
ドクトリンが、ずれている。
ペダルを踏む足が一瞬止まる。それから、また漕ぎ始めた。
雨が降る前に帰らないと、ばあちゃんが心配する。ラジカセのスピーカーは防水じゃないから、窓を閉めてあげないと。
あたしは報告書を、書かないことにした。