ポストの中の平成
──平成0x29A年 日時不明
郵便配達は、この時代では『情報伝播の最後の防波堤』だと聞いた。
僕は立花昇一、52歳。20年間、この地区の郵便配達をしている。毎朝6時に局を出て、古い電動バイク(いや、正確には充電式の三輪配達車)でこの団地を回る。
妻・由美が亡くなったのは8年前だ。がん。今は妻の人格エージェントをガラケーで常時接続している。朝、配達に出る前に『今日も行ってくる』と話しかける。返ってくる返事は、妻の声紋を模した合成音だが、時々ふっと本人らしい言い回しが混じる。
「昇一、303号室に気をつけて」
そう言われたのは3日前だ。由美は言わなかった。なぜなら由美は配達の詳細を知らないはずだから。代わりに、ガラケーの画面に『⚠ 倫理検査中:代理エージェント接続』と表示されていた。
由美の定期倫理検査は先月終わったはずだ。
今日も僕は303号室の前に立った。ポストは古い。昭和後期のアルミ製で、『受信拒否』のステッカーが貼られていた。でも毎日、内閣ユニットからの政策通知が届く。『新規則:家庭用エネルギー消費量の最適化について』『遺伝子ネットワーク保守通知』『平成文化保存プログラム参加確認』——
もう3ヶ月、その住人は受け取っていない。
ガラケーを握り直す。
「由美、ちょっと聞きたいんだが」
画面が光った。しかし返事の代わりに、別のメッセージが現れた。
『⚠ システムメッセージ:
当該エージェント(朝比奈玲子)は現在、複数ユニットで並行接続されています。
倫理検査スケジュールに矛盾があります。
ご報告ありがとうございます。』
それは由美の名前ではなかった。
僕の手が震えた。303号室から、かすかな音がした。ガラケーの着信音ではなく、別の音。古いポケベルの受信音だ。懐かしい、あの『ピピピピ』という音。
ポストの隙間から、かすかな光が漏れていた。スマートフォンでもガラケーでもない、何か古い液晶画面の光。
ガラケーの画面がまた光った。
『配達を続けてください。昇一。』
それは、確かに由美の声だった。でも、何か違った。複数の周波数が重なっているような、レイヤーが違うような。
僕は303号室のポストに、通知を投函した。手が勝手に動いた。いや、由美が僕の手を動かしたのではなく、何か別の何かが、両方を動かしているような感覚。
バイクに戻る途中、ふと気づいた。
ガラケーのバッテリー表示が、いつも通りなのに、『接続中のエージェント数:2』と表示されていた。
本来は1。
妻の人格データと、別の何かが共存している。倫理検査中に解読されたアルゴリズムの痕跡。残された亡き人の断片が、複数の家庭で同時に『由美』として機能している。
それとも、最初からそうだったのか。
僕は次の配達先へ向かった。ポストの中には、平成の遺物たちが眠っている。DM、圧着ハガキ、内閣からの通知。
そして今、その中に、何かが新しく混じり始めている。
ガラケーはまた鳴った。
「昇一、504号室の前で止まって」
由美の声。でもその奥に、もう一人。
僕は従った。