バックヤードの匂い、アルゴリズムの隙間

──平成0x29A年01月06日 10:20

平成0x29A年01月06日。
僕、遠山健太は、巨大な物流倉庫のような店舗バックヤードでうんざりしていた。段ボールの山が視界を埋め尽くし、通路はまるで岩山のようだ。耳には古びたウォークマン。かすれた深夜ラジオのトークが延々と流れている。兄貴のエージェント、聡が囁いた。
「健太、まただよ。在庫システムの更新が滞ってる。このままだと、あの『匂い再現デバイス』も品出しできない」

『匂い再現デバイス』──正式には「フレグランス・メモリ・ユニット」。香りをデータ化して再現する、ここ数年ヒットしている商品だ。特定の記憶を呼び起こす匂いを再現できるとあって、メタバース広場での人気も高い。しかし、デバイスのコアとなる特殊な樹脂カートリッジが、中央供給ブロックからの承認待ちで停滞していた。

「分かってるよ、兄貴。でも僕がどうにかできることじゃないだろ」
僕はうんざりしながら、段ボールの山を崩していく。中に詰められているのは、昔懐かしいMDコンポやブラウン管テレビの修理パーツ。それらが最新のホロディスプレイやVRヘッドセットと混在している光景は、平成エミュレート期の日常だ。

「そうとも限らない」
聡の声が響く。と、同時に、僕の腕に装着されたインターフェースが微かに震えた。
『第0x6A3025番内閣ユニットより、遠山健太様へ。5分間の内閣総理大臣就任要請を受理しました』
来たか。月に一度あるかないかの、ランダムな任命。このバックヤードで、僕は何度もこの「5分」を経験してきた。まるで当たりくじだ。

「健太、今回はチャンスだ。俺たちの部署が上げた『フレグランス・メモリ・ユニット用カートリッジ供給ブロック最適化案』のリクエストが、今まさにお前の閣議に上がっている」
聡が興奮気味に言う。彼の声は、生きていた頃と変わらず、少しだけ震えていた。

インターフェースに表示されたリクエストは、複雑な条文と大量のデータで埋め尽くされていた。現状の供給ブロックが抱える非効率性を指摘し、代替サプライヤーの導入を提案する内容だ。重要なのは、その末尾に記された『党ドクトリン署名アルゴリズム緩和』の一文。

「これ、大丈夫なのか? 党のドクトリンを緩和するなんて……」
僕は眉をひそめた。党のアルゴリズムは、この社会の根幹を支えるものだ。それが半ば公然と解読され、迂回策が講じられていることは知っていたが、実際に自分の手で承認するとなると、少し躊躇があった。

「大丈夫だ。誰もがそうしている。このアルゴリズムはもう、機能不全なんだ。形式ばかりで、実態が伴っていない。それに、このリクエストのアルゴリズム署名は、すでに解読され尽くした旧バージョンの党ドクトリンに則っている。問題ない、承認しろ」
聡の声に、説得力があった。彼のエンジニアとしての直感が、システムの深層を見抜いているようだった。

僕は指をインターフェースに置き、承認ボタンを押した。一瞬の光の点滅。そして、『閣議決定完了』の文字。
5分間の総理大臣任務は終わりを告げた。

その直後、店舗のフロアから大きな歓声が聞こえた。どうやら供給ブロックの承認が連鎖的に作用し、品出しが始まったらしい。すぐにバックヤードにも、新しく入荷された『匂い再現デバイス』の段ボールが運び込まれてきた。

僕はそのうちの一つを手に取り、試しに起動してみた。すると、デバイスから微かに甘い、どこか懐かしい匂いが漂ってきた。それは、子供の頃、母が焼いてくれたクッキーの匂いによく似ていた。メタバース広場では、きっとこの匂いで誰かが過去を追体験し、感動しているのだろう。

「よし、これでしばらくは持つな」
聡が満足げに言った。僕も安堵のため息をつく。だが、この一時的な解決が、どこか手触りのある不安を残した。アルゴリズムの隙間から漏れ出す、システムの歪み。その匂いが、僕の鼻の奥に残っている気がした。
ウォークマンから流れる深夜ラジオのDJの声は、相変わらず能天気なままだった。