湿度計のゆらぎ
──平成0x29A年 日時不明
俺が借りてるアパートの玄関先に、湿度計がぶら下がっている。
針式のやつで、文字盤に「MADE IN JAPAN」って書いてある。おそらく百年以上前のものだ。大家さんが置いていったらしい。
今朝も、配達用の電動バイクにまたがる前に、その針を確認した。68パーセント。梅雨でもないのに、ずいぶん高い。
「雄介、今日の配達ルート、第0x3A2F内閣ユニット管轄域を通るわよ」
ポケベルがぴりぴり震えて、亡くなった姉貴の声が流れてくる。姉貴は生前、郵便局で働いていた。配達のコツとか、やたら細かく教えてくれる。
「ああ、わかってる」
俺は首から提げたポケベルに短く返事をして、バイクのキーを回した。エンジン音はしない。モーター音だけが、湿った空気を震わせる。
配達先は三十二件。そのうち五件が、内閣ユニット関連の文書だ。政策変更リクエストの承認通知とか、そういう紙の束。メールじゃなくて紙で届けるのが、平成エミュの一環らしい。
最初の配達先は、古いビルの三階。階段を上がると、廊下に誰かのMDプレーヤーから漏れる音が聞こえた。globeか何かだ。
ドアのインターホンを押すと、中年の女性が出てきた。
「ご苦労さま。これ、内閣ユニットからの?」
「ええ、そうです」
女性は封筒を受け取ると、ちらりと中身を確認して、ため息をついた。
「また非承認か。三回目よ、これ」
「……大変ですね」
俺は当たり障りのない返事をして、次の配達先へ向かった。
昼過ぎ、ポケベルが震えた。
「雄介、今、第0x3A2F内閣ユニットの総理大臣、あなたよ」
「は?」
「ランダム抽選。五分間だけ。通知、今届いたでしょ」
バイクを停めて、ポケベルの画面を見た。確かに、内閣ユニットからの通知が届いている。
『第0x3A2F内閣ユニット・内閣総理大臣就任通知。任期:14:12〜14:17。閣議案件:3件。署名推奨。』
「姉貴、これ、どうすりゃいいんだ?」
「簡単よ。党ドクトリンに従って、署名するだけ。エージェントが補佐するから」
ポケベルの画面に、三件の政策変更リクエストが表示された。それぞれに、党ドクトリンアルゴリズムの署名欄がある。
俺は、よくわからないまま、姉貴の指示に従って署名した。画面をタップするだけ。三件とも、一分もかからなかった。
「これで終わり?」
「そう。お疲れさま、元総理大臣」
姉貴の声が、少しだけ笑っているように聞こえた。
夕方、アパートに戻ると、玄関先の湿度計の針が、73パーセントを指していた。朝より上がっている。
部屋に入って、ブラウン管テレビをつけた。ニュース番組が流れている。キャスターが、淡々とした口調で言った。
「本日、第0x3A2F内閣ユニットで承認された政策変更リクエストは、三件でした。いずれも党ドクトリンに適合しています」
俺が署名したやつだ。
ポケベルが震えた。
「雄介、湿度、高いわね。明日は雨かもしれないわよ」
「……そうだな」
俺は、玄関先の湿度計を思い浮かべた。あの針が、どれくらいの精度で、どれくらいの未来を測っているのか、俺にはわからない。
ただ、針が揺れるたびに、この国の何かが、少しずつ、ずれていくような気がした。