ハミング・バイパス
──平成0x29A年07月19日 23:00
自動運転に切り替えてから、もう三時間は経つ。俺の仕事は、この鉄の箱が旧首都高の環状線を逸脱しないか、ただぼんやりと見張っているだけだ。
キャビンの外では、平成の名残のオレンジ色の街灯が、雨に濡れた路面を照らしては後ろへ流れていく。フロントガラスには何も映っていないが、かけているスマートグラスの視界の端では、娘の咲が楽しそうにARの蝶を追いかけていた。
『パパ、今の蝶、虹色だったよ!』
「そうか、よかったな」
восьмилетнийエージェントは、いつだって元気だ。生きていれば、もう中学生になる歳だった。
耳元の骨伝導スピーカーからは、AM波の深夜ラジオが流れている。ノイズ混じりのDJの声が、単調な走行音の中で唯一の慰めだった。
『……さーて、お次はラジオネーム「環状線の迷子」さんからのリクエスト。懐かしいねぇ、このピコピコした感じ。昔のケータイの着メロみたいだ』
チープな電子音が流れ始めたその時、グラスの視界のど真ん中に、赤いアラートが割り込んできた。
【第0x8C3A内閣ユニットより緊急通達。貴殿を5分間、内閣総理大臣に任命します】
またか。舌打ちを一つ。月に一度は回ってくる、面倒な雑用だ。
『パパ、総理大臣! えらいの?』
「全然。誰でもなる」
咲が無邪気に拍手する横で、俺はため息混じりに閣議案件のリストを開いた。『承認』か『非承認』を選ぶだけの、流れ作業。ほとんどが、どこかの歩道橋の手すりの修繕とか、公園の水道管のパッキン交換といった、どうでもいい差分断片だ。
『大友監視員。党ドクトリンの推奨に基づき、優先度の高い案件から処理してください』
咲の声じゃない。法定倫理検査の時にだけ聞かされる、代理エージェントのような無機質な音声が、俺自身の思考を補佐する。無視して、リストをスクロールしていく。
指先が、ふと止まった。
【申請:旧臨海エリア第7埠頭への緊急バイパスルート開設】
申請元は、聞いたこともない「城南第二物流組合」とある。俺たちみたいなドライバーが、何年も前から陳情し続けているルートだ。これが開通すれば、非効率な環状線周回が大幅に短縮され、何百人もの同業者の拘束時間が減る。
だが、ドクトリンの署名優先度は最低ランクの『E』。どうせ、俺が承認したところで、上位の暗号アルゴリズムに握り潰されるのがオチだ。
『パパ、この道、早く通れるようになるといいね』
咲が、ARで表示された地図のバイパスルートを、小さな指でなぞった。その声は、ただのアルゴリズムのはずなのに、本当にそう願っているように聞こえた。
ラジオから流れるチープなメロディが、ふと耳に届く。
『……いやー、いい曲だ。リクエストくれた「環状線の迷子」さん、ありがとう。あんたの明日が、今日よりちょっとだけ良い日でありますように!』
DJの底抜けに明るい声が、やけに心に響いた。
残り時間は、三十秒。
俺は、迷いを振り払うように、その案件に『承認』の署名をした。どうせ無駄だ。でも、万が一。
五分の任期はあっけなく終わり、視界から閣議のウィンドウが消えた。トラックは相変わらず走り続け、咲はまた蝶を追いかけ始め、ラジオは交通情報を伝えている。何も変わらない、いつもの深夜だ。
そう思っていた、数分後。
ピコン、と軽い通知音が鳴った。
【ルート更新:第0x8C3A内閣ユニットの閣議決定が承認されました。旧臨海エリア第7埠頭へのバイパスルートは30分後に開通します。関連データは各分散ストレージへ同期されます】
俺は、その短いテキストを三度見返した。間違いじゃない。通ったのか。あの、優先度Eの申請が。
『やったね、パパ! 新しい道だよ!』
咲の歓声が響く。スマートグラスのナビ画面に、今まで存在しなかった青い光の道が、すっと描き足されていく。
環状線を離脱する、新しい分岐路。その輝きを見つめながら、俺は知らず知らずのうちに、口元を緩ませていた。ラジオから流れてきたあのチープなメロディを、いつの間にかハミングしながら。