緑の電話機、空にある署名

──平成0x29A年02月09日 16:10

 腰のベルトに装着したPHSが、安っぽい電子音でJ-POPのサビを奏で始めた。十六和音の着メロだ。私は回診用カートを押しながら、白衣のポケットを探る。ディスプレイには「内科・ナースステーション」の文字がドット絵のように表示されていた。

「はい、病棟クラークの牧野です」
「牧野さん! 空、見てください!」

 看護師長の切羽詰まった声に、私は廊下の窓へ視線を走らせた。西日が差し込む平成〇x二九A年二月九日、一六時一〇分。ガラスの向こう、中庭の上空で、銀色の配送ドローンが不穏な羽音を立ててホバリングしている。機体のLEDが赤く明滅していた。

『ハンドシェイクに失敗してるな。また院内LANの混線だ』

 脳内で冷静な声が響く。三年前に過労死した夫、隆司だ。元ネットワークエンジニアだった彼は、今や私の視覚野に常駐するエージェントとして、生前よりも雄弁に世界を解説してくる。

「システム課、何してるのよ……あのドローン、緊急の輸血パック積んでるはずなのに」
「量子署名の照合がタイムアウトしてるんですって! このままだとセキュリティ規定でリターンしちゃいます!」
「わかった、すぐ何とかする」

 私は通話を切り、廊下を走った。最近のOSアップデートで追加された「平成的通信遅延」のエミュレーション機能が悪さをしているに違いない。不便さを懐かしむ機能なんて、医療現場には邪魔なだけだ。

『沙織、ロビーの緑電話だ。あれを使え』
「え? 公衆電話?」
『あのアナログ回線は、党ドクトリンの監視プロトコルとは別系統で生きている。管理用バックドアがあるはずだ』

 私は一階のロビーへ駆け降りた。隅に置かれた、埃を被った緑色の公衆電話機。入院患者の老人がたまに使う以外、誰も見向きもしない遺物だ。私は財布から、虹色のホログラム加工がされたテレホンカードを取り出した。度数は残り四十二。

 カードをスロットに差し込むと、カシャリと小気味よい音がして飲み込まれた。受話器を耳に当てる。ツーーーという発信音が、ひどく懐かしく、そして生々しく鼓膜を震わせた。

『よし、特番を打て。一、五、九、シャープだ』

 私は隆司の指示通りにプッシュボタンを押した。ピ、ポ、パ、というDTMF音が響く。受話器の向こうでノイズが変わり、電子的な沈黙が落ちた。

『ドローンの機体IDは見えてるか?』
「うん、XK-90……」
『よし、それをテンキーで変換して入力。最後に量子署名のバイパスコードだ。俺が読み上げるから、リズムよく押せ』

 ロビーのテレビからは、ワイドショーの再放送が大音量で流れている。誰かが不倫をしたとか、どこかのラーメン屋が美味いとか、どうでもいいノイズの洪水。その中で、私は夫の声だけを頼りに、プラスチックのボタンを叩いた。

 ――ピポパポ、ピピポパ。

 指先から伝わるバネの感触。デジタルな量子署名を、こんな物理的な接点で送るなんて滑稽だ。でも、不思議と焦りは消えていた。受話器の重みと、耳元の夫の声。まるで、昔彼に電話をかけて、PCのトラブルシューティングを頼んだ時のようだ。

『ラスト、シャープ二回!』

 タン、タン。
 受話器の奥で「ピーーーヒョロロ」という、間抜けなモデム音が鳴り響いた。
 窓の外を見る。赤い点滅を繰り返していたドローンが、スッと緑色に変わった。機体は滑らかに高度を下げ、中庭の芝生へと着陸していく。

「……通った」
『ナイスだ、沙織。タイミング完璧だったぞ』

 私は大きく息を吐き、受話器を置いた。テレホンカードが戻ってくる。度数は三十に減っていた。
 背後でまた、PHSが鳴り始めた。今度は別の着メロだ。きっと「届きました」という報告だろう。

 私はカードを財布に戻しながら、少しだけ笑った。最新鋭の量子暗号網が、数十年前の電話線に助けられる皮肉。そして、死んでもなお、こうして私を助けてくれる夫の存在。
 不便で歪なこの世界も、悪いことばかりじゃない。受話器に残った微かな熱が、私の掌に静かに移っていた。