未押印の領収印、転がるカセット
──平成0x29A年 日時不明
窓口の天井灯は、いちど点いてから、少し遅れて明るさを決める。
その“遅れ”が、ここでは当たり前だ。
私は行政サービスステーションの料金調整カウンターに座り、透明ファイルを膝に置いた。中身は、折り目のついたガス検針票と、紙の領収印が押された支払い記録。端には、サブスク決済の控え——月額の「生活基盤パック」が自動で落ちているはずだという証明。
「それでも、二重請求になってる」
耳の奥で、父の声が言う。私のエージェント——山川正志、享年五十二。工事現場で落下事故。生きていたころと同じ、短く区切る喋り方だ。
カウンター前の待合は、ロボ清掃員が静かに往復していた。白い胴体に、青い「清掃中」表示。床の矢印シールを律儀になぞり、人の靴先を避ける動きだけが妙に人間くさい。
番号札を呼ばれ、私は椅子から立った。
窓口の端末は、薄い板のくせに画面はどこかiモードみたいな段組で、指でなぞるとARの広告がふわりと浮く。「懐かしの名作、今だけ配信」——その下に、なぜかファミコンカセットの絵が回っている。
担当の職員は淡々と、私のファイルを受け取った。
「ガス料金の相殺申請ですね。現行制度との差分断片……こちら」
彼女は“差分”の文章をスクロールし、署名欄で指を止めた。
「党ドクトリン署名が……合ってない」
言われた瞬間、背筋が冷えた。
不備、とか、再提出、とか。そういう言葉で済むはずなのに、ここでは“合ってない”が一番こわい。
父が、鼻で笑う気配をつくる。
「微妙なズレだ。ハッシュの末尾が一桁。誰かが手で直したな」
職員の視線が一瞬だけ私の耳元——エージェント出力の骨伝導レシーバに触れ、それから画面に戻った。
「この申請、署名が第402ヘゲモニー期の標準プレフィクスじゃないんです。……通すと、後で監査が引っかかる」
「でも、支払いはサブスクで落ちてるはずで」
「落ちてます。生活基盤パックの方は正しい。ただ、ガスの“個別”が、相殺のところだけ古い署名体系で……」
彼女は言葉を選んで、結局、事務的に言い切った。
「現状、承認できません」
待合のロボ清掃員が、私たちの足元の境界線をまたぐように近づき、気づいたように方向転換した。ゴムブラシが床を撫でる音が、やけに大きい。
私はファイルを抱え直し、息を整えた。
「じゃあ、どうしたら」
職員は、端末の片隅の通知を見た。
小さく、しかし確実に、別の世界の速度で文字が流れている。
【内閣ユニット通知:第0x29A—402系統 審査補助要請】
彼女の指が止まり、次の瞬間、表情がほんの少しだけ“別人”になる。
「……あ、今、こちらの窓口、臨時で承認権限が割り当たりました」
父が低く言う。
「五分のやつだ」
職員は端末に触れ、暗号鍵の入力画面を開いた。鍵は本人のものではなく、どこかの誰かが、ほんの短時間だけこの場を通して意思決定する。
申請の差分断片が並び、その右に「承認/非承認」。
彼女は私のガス検針票の数字と、サブスク決済の控えを見比べた。
そして、署名欄の赤い警告に目を細める。
「合ってないのは、合ってないんです」
彼女は独り言のように言い、次に、私へ向けて小声で続けた。
「でも、生活は止められない」
父が、いつになく静かだった。
職員は“承認”を押さず、別のボタンを開いた。
「近似署名の付与」
「それ、いいんですか」
「良くはないです。……ただ」
彼女は画面の説明文を読み、声に出して確かめる。
「『党ドクトリン整合性に軽微な不整合がある場合、社会安定を優先し、最も近い署名系列へ補正する』」
父が吐息をついた。
「末期だな。ほら、書いてあるだろ。正しさより、落ち着きだ」
職員の指が確定を押すと、端末が一瞬だけ白く瞬いた。
領収印の代わりに、見慣れない細い文字列が発行され、私のファイルに転送された。
「これで相殺が通ります。……ただし」
彼女は私を見た。
「次からは、同じ手は使えないかもしれません。署名体系がまた変わるので」
私はうなずき、ファイルを閉じた。
待合に戻ると、ロボ清掃員が椅子の脚に当たりそうになり、ぎりぎりで止まった。誰かの忘れ物が床に落ちている。
私は屈んで拾う。
手のひらに収まったのは、黒いファミコンカセットだった。角が擦れて、ラベルの文字が薄い。
父が、懐かしそうに言う。
「昔、あれでよく遊んだな。お前が小さくて、勝てなくて、泣いて」
「泣いてない」
口では否定しながら、私はカセットの裏の端子を親指でなぞった。金色の筋が、少しだけ曇っている。
窓口の方から、さっきの職員の声が聞こえた。
「——臨時権限、終了しました」
白い瞬きのあと、彼女の表情は元に戻り、何事もなかったように次の番号札を呼んでいる。
私は忘れ物台にカセットを置き、名残惜しく手を離した。
父が、いつもより柔らかい声で言った。
「置いてけ。誰かが拾って、また繋ぐ」
ガスの相殺は通った。
でも、いま通したのが“制度”なのか、“気まぐれな補正”なのか、私には区別がつかない。
ロボ清掃員が忘れ物台の下をくぐり、カセットの影だけをきれいに吸い取っていった。
私はその背中を見送りながら、父の声が次の倫理検査で途切れる未来を、日時のない予感として抱えたまま、書類の重みを確かめるように出口へ歩いた。