電話帳の埃、微睡む送電線
──平成0x29A年10月24日 16:50
平成0x29A年10月24日、午後4時50分。部屋の蛍光灯が、チカッと一瞬瞬いた。
「またか」
僕の傍らで、祖父のエージェント、田中謙三がため息をついた。彼の人格はいつもこんな風に、微細な異常にも敏感に反応する。元配電技術者だった彼の勘は、死後も健在らしい。
「第11電力ブロック、末端配線に微細な電圧降下。このアパートの三階と四階、特に古い共同住宅のシステムは脆弱だ」
脳内に直接送られてくる祖父の声は、無口だった生前の彼を知る僕には、少々饒舌すぎるように感じられる。だが、的確な分析はいつも通りだ。
すぐにブロック中央に「現行制度との差分断片」として政策変更リクエストを送信した。末端配線の改修、電圧安定化装置の導入。どれも必須だ。承認にはもちろん、第402ヘゲモニー期を支配する「党ドクトリン」のアルゴリズム署名が必要になる。最近は半ば公然と解読されているという話も聞くが、形式は依然として厳格だ。
蛍光灯の点滅は、数分おきに発生するようになった。停電は困る。僕は部屋の隅に積まれた乾電池の山から、単一電池を四本取り出した。昭和風のデザインが施された、ごく一般的な防災ラジオにセットする。チューニングダイヤルを回すと、ノイズ混じりに音楽が流れてきた。平成初期のポップスだろうか。
テーブルの引き出しから、分厚い電話帳を取り出す。もう何十年も更新されていないような、色褪せた紙の束。緊急時に備えて、アナログな業者をリストアップしている。指でページをめくりながら、昔ながらの蓄電池販売店の連絡先を探した。エージェントを介した自動音声通話システムもあるが、こういった物理的な手段が、かえって安心する時もある。
「そんなことをしている間に、承認が下りるかもしれないだろう」と祖父が言う。「いや、無理だろう」と僕は心の中で返した。今日の夕食は冷凍食品だ。電子レンジが使えなくなっては困る。応急処置のために現場へ向かう必要があった。
アパートを出て、最寄りの駅へと向かう。バイオメトリック改札に指紋をかざすと、カチャン、と古いSE音を立ててゲートが開いた。構内にはロボ清掃員が滑るように床を磨いている。その動きは滑らかで、僕の心とは対照的だった。
現場の共同住宅は、僕のアパートよりもさらに古かった。配電盤を開けると、内部のケーブルが微かに熱を持っているのが分かる。一時的な電圧安定剤を注入し、接触不良を起こしている端子を締め直す。作業中も、脳内で祖父が「もっとしっかりやれ」「次はここだ」と指示を出す。彼の声はいつも、僕の手を動かすための最も確かな指針だった。
数分後、部屋の電気が安定したという通知が、僕のガラケーに届いた。もちろん、一時的なものだ。抜本的な改修が承認されるまで、この微細な故障は、きっとまたいつか顔を出すだろう。
駅からの帰り道。空はもう茜色に染まり、アパートの窓からはまばらに灯りが漏れていた。部屋に戻ってくると、テーブルに置かれた懐中電灯が、まだ微かに光を放っていた。乾電池の残量を示すインジケーターは、もうほとんど底をついている。電力は回復しているのに、なぜかその光は、電力供給が安定する前よりもずっと薄く、頼りなく見えた。僕はそれを、ただ淡々と見つめていた。