水紋と、朝の署名

──平成0x29A年01月25日 08:20

午前8時20分。
僕の足元に埋め込まれた位置情報ビーコンが、微かに振動した。
公園の清掃ルートを示す合図。毎朝のルーティンだ。
冷え込んだ空気は澄んでいて、遠くのビル群がホログラム掲示の広告のように瞬いていた。

「健太、今日こそは噴水の件、進めなきゃダメだよ」
耳元のエージェントが呟いた。母の声だ。斉藤恭子、享年58、交通事故死。元公園の管理人だった。
「分かってるよ、ママ。でも、あの手続きの山、想像するだけでうんざりする」
僕は掃き掃除の手を止めず、落ち葉をちりとりに入れた。

公園中央のシンボルである噴水は、ここ数週間、ずっと止まったままだ。水は澱み、底には小銭がいくつか沈んでいる。
公園のインフラ故障は、僕の管理するブロックの「現行制度との差分断片」として、毎日システムに上がってくる。
しかし、承認されることはない。優先度が低いのだろう。

「昔はね、ああいう設備のメンテナンス記録はMOディスクに保存されてたんだよ。フロッピーよりは丈夫でね」
母は懐かしそうに言う。僕はMOディスクがどんなものか、博物館の展示でしか知らない。
手元の端末で、噴水復旧のための「政策変更リクエスト」のフォームを開く。
入力項目は膨大で、承認プロセスは複雑怪奇だ。党のドクトリンに基づくアルゴリズム署名が必要とされ、そのアルゴリズムは半ば公然と解読されているというのに、手続きは一向に簡素化されない。

その時、端末が突如、強い光を発した。
『第0x127A5983内閣ユニット閣僚認証。閣僚番号:402。貴方を、5分間の内閣総理大臣に任命します』
いつものことながら、あまりに突然で、間の抜けた電子音と共に通知が表示される。
「また僕か。このランダム人事、そろそろ勘弁してほしいんだけど」
僕はため息をついた。これで今月三度目だ。

「健太、チャンスだよ!」
母の声が、興奮している。
端末の画面が閣議室のインターフェースに切り替わった。
山積みの政策変更リクエストの中から、僕の提出しようとしていた『中央公園噴水機能回復優先度向上リクエスト』を一番上に持っていく。

「この噴水のポンプ部品、確か…『手書き領収書』で買った記憶があるわ。あの頃はまだ、そういうのも認められてたんだから、特別枠で早く承認されるべきよ」
母が真剣な顔でアドバイスする。手書き領収書。今の時代、ほとんど見かけない物だ。
だが、母の言葉には、どこか抗えない説得力があった。

僕はリクエストの承認ボタンを押す。
アルゴリズム署名が求められる。端末が発する暗号化された光が、僕の手のひらを温かく包む。
党ドクトリンの深遠なロジックが、僕の個人的な感情と、母の記憶を内包したエージェントの助言を、どう処理するのか。

数秒後、『承認』の文字が浮かび上がった。

5分間の任期は終わりを告げ、端末は通常の清掃ルート管理画面に戻った。総理の座は、またどこかの誰かにランダムで渡されたのだろう。
僕は何気なく噴水の方を見た。まだ止まったままだ。
しかし、公園の入り口に設置されたホログラム掲示板に、新しい情報が表示されている。
『中央公園噴水、復旧作業開始予定:本日10時より』

「見て、ママ」
僕が言うと、母は静かに頷いた。
止まった噴水の水面に、朝日が反射してきらめいている。
まるで、また水が動き出すことを予感させる、淡い光の断片のようだった。
世界は依然として複雑怪奇だが、その水面に映る僕らの影は、少しだけ、希望に満ちているように見えた。
僕らの小さな「差分断片」が、確かに世界を変えたのだと。

遠くから、整備員の車両の音が聞こえてきた。