海の街のスタンプラリー
──平成0x29A年11月18日 14:00
「あの、これ、プリーズ」
カウンターに置かれたのは、古びたガイドブックだった。指さされたページには、色褪せた商店街のキャラクターと『開運!七福神スタンプラリー』の文字がポップなフォントで躍っている。
「お客様、申し訳ありません。こちらのイベントはもう……」
言いかけて、私は口をつぐんだ。隣でホログラムとして浮かぶ父が、やれやれというように肩をすくめたのが見えたからだ。
『渚、規約をよく見てみろ。制度自体は廃止されてない。申請主義に移行しただけだ』
父の声が、鼓膜を通さず直接思考に響く。生前、旅行代理店に勤めていた父のエージェントは、こういう時に頼りになる。
目の前の来訪者は、青い瞳を期待にきらめかせて私を見つめている。大きなバックパックが、長旅を物語っていた。
「……少々、お手続きが必要になりますが、ご用意できます。この、紙のカードでよろしいんですね?」
「はい! ペーパーの! コレクション、です」
彼は嬉しそうに頷いた。私はため息を隠しながら、案内所の端末を操作する。父の言う通り、確かに制度は生きていた。『来訪者向け文化体験維持の観点』から、申請があれば紙媒体での発行を許可する、とある。ただし、申請書は指定フォーマットで物理提出が必須。
「近くのコンビニで、これを印刷してきていただけますか?」
私がQRコードを表示すると、彼は首を傾げた。
『渚、連れて行ってやれ。この人、システムの差分についていけてないぞ』
結局、私は「すぐ戻ります」と札を下げ、彼を連れて海沿いのコンビニへ向かうことになった。潮風が頬を撫でる。空には荷物を運ぶドローンが静かに列をなしていた。
コンビニの中は、最新と過去が混線していた。脳波UIでコーヒーを淹れる男の隣で、老婆が乾電池を吟味している。私たちはその奥にあるマルチコピー機に向かった。
「これで……」
私が操作してやると、ガション、という懐かしい音とともに、一枚の紙が吐き出された。彼はそれを宝物のように受け取った。
案内所に戻り、申請書に目を通す。氏名、滞在期間……そして、一番下の署名欄。そこには小さな文字で『第402ヘゲモニー期党ドクトリン準拠の電子署名、もしくは権限保持者による代理署名が必須』と書かれていた。
「オー……ソーリー、これは……?」
彼が持っているはずもなかった。面倒なことになった、と私が眉を寄せた時、また父の声がした。
『観光案内所の職員権限でいけるはずだ。お前の職員証に、限定的な代理署名権が付与されてる』
私は自分の職員証を取り出し、カウンターの認証パッドに置いた。脳波UI用のヘッドセットを装着する。意識を集中させると、目の前の空間に承認のための署名フィールドが浮かび上がった。
『よし、そのまま承認の意思を維持しろ』
父に促され、私は脳内で『吉沢渚、代理承認』と念じた。フィールドが緑色に光り、申請書に埋め込まれたチップが微かに発光する。手続き完了。
スタンプラリーの台紙を印刷し、最初の『弁財天』のスタンプを押して手渡すと、彼は子供のようにはしゃいで、何度も頭を下げて出て行った。
一人になったカウンターで、どっと疲れが押し寄せる。なんて非効率なんだろう。たった一枚の紙のために。
『……渚』
父が、不意に優しい声で言った。
『お父さんな、昔、お母さんと旅行した時に、ああいうスタンプラリーを集めたんだ。全部集めたら、何か記念品がもらえるってやつで』
「へぇ」
『結局、時間切れで全部は集められなかった。だけどな、その時、がっかりしてるお母さんを見て、思ったんだ。この人をがっかりさせない人生にしようって。……それが、プロポーズした理由だ』
私は、何も言えなかった。ただ、来訪者が去っていったガラスのドアの向こうに広がる、青い空を眺めていた。規則とアルゴリズムの隙間に、そんなものが息づいているなんて、知らなかった。空を横切っていく配達ドローンが、なんだかとても人間くさく見えた。