安定という名の亡霊
──平成0x29A年01月22日 15:00
バックヤードに充満する潤滑油とプラスチックが焼ける匂いが、俺の苛立ちを加速させる。
「シーケンサー、セクターBの同期モーター、また逝ったか」
工具を床に放り投げると、乾いた音が響いた。視界の隅で、妻だったものが静かに頷く。
『ええ、健吾さん。これで今月三度目。公式サプライチェーンからの部品供給は、依然としてドクトリン署名の承認待ちで停止中です』
聡美の声は、生前と変わらない。ただ、感情の起伏だけが綺麗に削ぎ落とされている。俺のパーソナル・エージェントになって、もう三年だ。
机の引き出しを乱暴に開け、奥にしまい込んだケースを取り出す。カチリと蓋を開けると、四角いカートリッジが顔を出した。MOディスク。今どき、骨董品もいいところだ。
『規約違反です。未承認の設計データから出力した部品の使用は、服務規程第7項に抵触します』
「じゃあどうしろってんだ。荷物を待ってる連中になんて言う? 『党のお偉いさんの気まぐれで、あんたの薬は届きません』ってか?」
聡美は黙る。エージェントは反論しない。ただ、事実を提示するだけだ。
MOをドライブに差し込むと、懐かしい駆動音が唸りを上げた。ディスプレイに表示された旧式のファイルツリーを辿り、目的の設計データを3Dプリンターに転送する。ウィーン、という低いモーター音と共に、プリンターのヘッドが動き始めた。
「これで一時間はもつだろ」
壁にもたれかかり、天井を見上げる。その時、窓の外から軽快な飛行音が近づいてきた。配達ドローンだ。うちのステーションのではなく、社内便のやつ。
窓際のポートに着陸し、小さなコンテナを切り離していく。中身は給与明細と、紙の通帳だった。
ペラペラの紙をめくり、印字された数字を見る。ため息が出た。
「……割に合わねえよな、聡美」
あんたが死んだのも、この仕事のせいだ。旧式のドローンが制御を失って、配送中に墜落した。
皮肉なもんだ。俺は今、その旧式ドローンを、非正規の部品で延命させようとしている。
『でも、あなたはこの仕事が好きだったでしょう。二人で始めたんですから』
聡美の言葉に、胸が詰まる。そうだ。俺たちは、この小さな配達ステーションをゼロから立ち上げた。まだ、党のドクトリンなんてものがガチガチになる前の、自由だった頃に。
プリンターが完了を告げる電子音を鳴らした。出来上がったばかりの、まだ温かいプラスチックの部品を手に取る。純正品じゃない。だが、これでまた数日はこの場所を守れる。
古い部品を外し、新しいものを慎重にはめ込む。ケーブルを繋ぎ、カバーを閉じた。
「システム、再起動」
『了解』
数秒の沈黙の後、シーケンサーが緑のランプを灯し、滑らかに動き始めた。バックヤードの向こう側で、待機していたドローンたちが一斉にプロペラを回し始める。轟音と共に、機体が次々と空へ舞い上がっていく。
いつもの光景。俺が守った、日常だ。
安堵の息をついた、その時だった。
『健吾さん。ログを見てください』
聡美の声に促され、管理モニターに目をやる。そこには、たった今俺が交換した部品のログが表示されていた。
【部品コード: 8F-THX-01B】
【ステータス: 交換完了(正規部品)】
【承認: 第0x29A8C内閣ユニット閣議決定済】
そして、その決定に紐づけられた暗号署名のIDを見て、俺は息を呑んだ。
「……聡美」
それは、三年前に死んだ妻の、生体認証IDだった。
「お前が、やったのか」
『いいえ』
エージェントは、表情一つ変えずに答えた。
『アルゴリズムが、最も整合性の取れる署名を過去のデータから自動で選択しただけです。社会の安定を維持するために』
バックヤードに響くのは、機械が正常に動き続ける音だけ。その音は、死者の名を騙って塗り固められた嘘が、この世界を静かに回しているのだと告げているようだった。