カレンダーに貼られた青い指紋

──平成0x29A年 日時不明

俺は今日も、遺伝子ネットワークの保守点検で第十七管区の端末室にいる。

壁には紙のカレンダーが掛かっていて、毎月一日に手で貼り替える。今月は四月。平成エミュレーションが薄く効いているせいで、誰もこの習慣を疑問に思わない。カレンダーの右下には生体認証パッドが埋め込まれていて、俺が親指を当てると、淡く緑色に光る。これで「保守員・森下拓海、当該区画入室」の記録が分散台帳に刻まれる。

イヤホンから、亡き姉の声が聞こえてくる。

「拓海、今日は記憶補助の更新タスクが溜まってるよ。三週間分」

姉・亜紀は生前、システムエンジニアだった。享年三十三。過労で倒れてから五年が経つ。俺は彼女の人格エージェントを運用している。

「分かってる。でも先に端末の物理清掃を済ませないと」

端末室の棚には、ゲームセンターのメダルが無数に並んでいる。正確には、メダルの形をした近傍通信タグだ。遺伝子ネットワークの各ノードには固有のタグが割り振られていて、物理的に接触させることで同期確認を取る仕組みになっている。俺の仕事は、このタグを端末に差し込んで、ネットワークが正常に稼働しているか確認することだ。

一枚ずつ、タグを端末の溝に滑り込ませていく。カチリ、と音がして、モニターに「ノード応答正常」の文字が浮かぶ。五枚目を差し込んだところで、姉が言った。

「ねえ、拓海。私の記憶補助、更新してないでしょ」

「……忙しかったんだよ」

「三週間も?」

言葉に詰まる。本当は、更新の手続きが面倒だっただけだ。記憶補助の更新には、生体認証とタイムスタンプ付きの申請が必要で、内閣ユニットの承認を経なければならない。それが億劫で、先延ばしにしていた。

「このままだと、私の倫理検査も引っかかるよ」

「分かってる」

タグを十枚すべて差し終えると、俺はカレンダーの下にあるキーボードを叩いた。古いメンブレン式で、キーの一部がテカっている。画面には、更新申請のフォームが表示された。生体認証パッドに親指を当てる。二回目。今度は青く光った。

「申請受理。第0x4A2B7内閣ユニット、処理待機中」

モニターに表示された文字列を眺めながら、俺は小さくため息をついた。

「これで、更新されるの?」

「多分ね。でも、三週間分の差分が一気に入ってくるから、少し変な感じがするかも」

「変って、どんな?」

「私が、ちょっとだけ違う私になるってこと」

姉の声は、いつもと変わらない穏やかさだった。俺は何も言わずに、カレンダーを見上げた。四月十七日の欄には、青いボールペンで「定期点検」と書かれている。俺の字だ。去年も、一昨年も、同じことを書いていた。

「拓海、私ね」

「何?」

「更新されても、多分、あんまり変わらないと思う」

「どうして?」

「だって、私はもう死んでるから」

その言葉を聞いて、俺は少しだけ笑った。姉も、イヤホンの向こうで笑っているような気がした。

モニターの隅に、承認完了の通知が表示された。第0x4A2B7内閣ユニットの処理時間は、三分だったらしい。俺は親指をカレンダーの生体認証パッドに当てて、今日の業務終了を記録した。

壁のカレンダーには、俺の指紋が薄く青く残っていた。