観賞用糖度15度
──平成0x29A年11月21日 23:20
第12農業ブロックの夜は、ハイ圧ナトリウムランプのオレンジ色と、腐葉土の匂いに沈んでいる。
俺はビニールハウスの隅にある、24時間営業の無人コンビニ「サン・チェーン」の自動ドアをくぐった。時刻は23時20分。深夜だというのに、店内には作業着姿の男たちが数人、雑誌コーナーで立ち読みをしている。平成エミュレーションの一環で復活した紙の雑誌だ。
「健介、急げよ。24時を過ぎると日付が変わって、ドクトリンのハッシュ値が更新されちまう」
視界の端で、親父が急かす。安藤修三、享年六十八。死因は肝硬変。生前と変わらず、くたびれたメッシュキャップを被った姿でAR表示されている。
「分かってるよ。焦らせるな」
俺は店舗の奥、マルチコピー機の前へと進んだ。この旧式の筐体こそが、ブロックチェーン行政への物理アクセスポイントだ。
手には、収穫したばかりの「あまおう改・弐型」の出荷申請書。正規の手順でスキャンすれば、中央の並行内閣ユニットが審査を行い、早くて三日後に許可が下りる。だが、そんな悠長なことをしていればイチゴは腐る。
俺はポケットからスマホを取り出し、「記憶補助アプリ」を起動した。メモ帳アイコンには『裏技手順書_ver4.2』の文字。
「右、右、カラー選択、白黒反転、枚数99……」
ブツブツと呟きながら、コピー機のタッチパネルをリズミカルに叩く。これは「党」の署名アルゴリズムの脆弱性を突く、公然の秘密コマンドだ。最近では農協の寄り合いですら、新しい解除コードが回覧板のように共有されている。
背後で、電子音が鳴った。
「あー、もしもし。喉が痛いんですがね」
イートインスペースに設置された「リモート診療端末」に向かって、隣のハウスの古賀さんが大声で話しかけている。画面の中のAI医者は、無機質な笑顔で聴診器を当てるふりをしていた。
「カゼですね。葛根湯の処方データを送信します。お大事に」
古賀さんが端末から吐き出されたレシートをむしり取る。「やぶ医者め、先週も葛根湯だったぞ」と悪態をつく声が聞こえた。
俺の方も、ようやく画面が遷移した。管理者モードの裏口が開く。
「よし、行けるぞ。ドクトリン署名をバイパスして『即時承認』を偽装しろ」
親父が身を乗り出して指示する。
俺は申請書をガラス面に伏せ、スタートボタンを押した。ウィーン、という駆動音と共に、強力な光が走る。この光が、アナログな紙の情報をデジタルな行政データへと強制変換する。
数十秒後。排出口から、承認印が刷り込まれた新しい書類が出てきた。
だが、それを見た俺は眉をひそめた。
「……なんだこれ」
品目欄には『観賞用植物(非食用)』と印字されている。
「あちゃあ」親父が頭を抱えた。「アルゴリズムがまた変わったな。食品衛生基準の署名演算をサボるために、観賞用としてハックしちまったんだ」
俺は天井を仰いだ。観賞用。糖度15度の、極上のイチゴが。
「まあいいじゃねえか」親父がニヤリと笑う。「市場の連中も分かってて買うさ。『絶対に食べないでください』ってシールを貼って売れば、税率も下がるしな」
確かに、この国では建前と本音が乖離したままシステムが回っている。誰も気にしないだろう。
店を出ると、冷たい夜風が吹いた。
駐輪場に停めておいた俺の自転車に、黄色い紙片が括り付けられている。
『警告:駐輪許可証の期限切れ。直ちに更新されたし』
風にバタバタと靡くその紙札は、デジタルな警告よりも遥かに威圧的で、そしてどこか滑稽だった。
俺は紙札を千切り捨てると、カゴに入れたイチゴを一つ摘まみ、口に放り込んだ。
観賞用と定義された果実は、背徳的なほどに甘かった。