出席番号が二つある朝

──平成0x29A年07月22日 07:40

平成0x29A年07月22日、07:40。

自律型バスのドアが「プシュ」と軽く鳴って閉まる。運転席は空っぽで、代わりに古い車内放送みたいな声が「次は、第七教育ブロック職業訓練校前」と告げた。

俺はつり革に掴まりながら、胸ポケットの磁気定期券を指でなぞる。角が少し欠けていて、改札に通すたびに不安になるやつだ。

「落とすなよ。今どき磁気って」
耳元で母さんの声がした。俺の近親人格エージェント――佐和子。享年五十二、脳出血。生前と同じ調子で小言を言う。

「わかってる。スマホの定期、再同期が怖い」
俺が返すと、母さんは「怖いなら余計ちゃんとせい」と笑った。

窓の外、通学路の先に高層農業プラントが見えた。ガラスの壁面にレタスの段が何十層も重なって、朝の光を薄緑に返している。そこから伸びる配管が校舎の裏へ回り込んでいるのを見ると、ここが“訓練”の場所なんだと胃が引き締まる。

バスを降り、校門のゲートで磁気定期券を読み取りに当てる。

……ピ。

一拍遅れて、警告音。

【個人データ再同期:未完了】
【出席権限:暫定(24時間)】

「ほら見ろ」
母さんの声が少しだけ低くなる。

受付端末の横には、平成っぽい折り畳み携帯が鎮座していた。授業用の“旧式端末”だ。俺はそれを開き、iモードサイトのメニューに親指でカーソルを合わせる。

『再同期申請/出席番号照合/差分提出(教育ブロック)』

画面の上には、なぜかサブスク動画の広告がARでふわっと重なって、たまに指先をすり抜ける。古いUIに新しいノイズ。最近、こういう混線が増えた気がする。

申請を押すと、すぐに「照合中」の砂時計。

代わりに出てきたのは、俺の顔写真が二つ並んだ画面だった。

【出席番号:14-3-090】
【出席番号:14-3-090(旧)】

旧のほうの写真は、三年前の俺で、目の下のくまが濃い。新しいほうは昨日撮ったはずなのに、なぜか口元が母さんに似て見える。

「ねえ、これ……」
俺が呟くと、母さんが素早く言った。

「気にすんな。顔は似るもんよ、親子なんだから」

違う。似たのは顔じゃない。

画面の下に小さく表示されたログに、俺は息を止めた。

【エージェント人格:サワコ/同期先:教育ブロック補助判断モジュール】
【倫理検査:未実施(期限超過)】

「母さん、今、どこにいる?」

「ここよ。あんたの耳の横」

その言い方が、ほんの少しだけ遅れて届いた。いつもの“間”じゃない。まるで、別のどこかで一回考えてから返しているみたいに。

校舎の廊下を歩くと、壁のモニタに『第402ヘゲモニー期・ドクトリン遵守講習』の表示が流れていた。出席認証のために、俺は手首を端末にかざす。端末が青く光り、すぐ赤に変わる。

【個人データ:再同期リトライ中】
【暫定許可:発行】

母さんが囁く。

「講習はサボるな。そういうの、あとで面倒」

俺は頷きながら、心の中でだけ反論する。面倒なのは講習じゃない。母さんの“期限超過”だ。

教室に入ると、訓練生たちがそれぞれの端末で差分提出の練習をしていた。窓の向こうには高層農業プラント。葉の影が揺れて、教室の白い床に薄い縞を落とす。

俺の端末に通知が来た。

【再同期:部分完了】
【出席番号:14-3-090】
【付随データ:エージェント人格の一部が別台帳へ複製されています】

複製。

俺は、磁気定期券を机の上に置いた。まだ温度が残っている。さっきまで俺のポケットにあった、ただの薄いプラスチック。

「……母さん」

「なに?」

声はいつも通り優しい。でも、その優しさが、俺だけのものじゃない気がした。

訓練の講師が前に立ち、「今日の課題は“差分の読み方”」と言う。みんなが端末に向かう。

俺は画面を見たまま、机の上の定期券を指で押さえた。

この世界で、出席番号は増えても生活は続く。

ただ、耳元の母さんが、いつか「ここよ」と言わなくなる日が来る。

それを、俺は今朝、はじめて“気づいてしまった”。