半券の裏で、更新待ち

──平成0x29A年04月26日 21:10

平成0x29A年4月26日、21:10。

職業訓練校の実習棟は、夜になると蛍光灯がやけに白い。床のワックスの匂いに、エアコンの古いフィルタの湿った匂いが混ざる。私は端末ケースから折り畳み式のガラケーを出して、画面の小さな「i」アイコンを押した。

「またiモードサイト?」と、耳元のエージェントが呆れた声を出す。父の声だ。亡くなる前、町工場で新人に段取りを教えていたのと同じ調子。

「校内ポータルが重いんだよ。こっちの方が軽い」

実習の課題は、物流用群ロボットの“編隊”に、明日の搬送ルートを流し込むこと。ところが最新版の教材はメタバース広場に置かれていて、そこに入るには校内ポータル経由の認証がいる。ポータルは混み合う時間になると、平成の回線みたいに固まる。

私は教卓の横の、年季の入ったICカードリーダに学生証をかざした。ピ、と鳴ってから沈黙。画面には「ただいま更新中」の砂時計。

「更新中って、いつ終わるんだよ」

父が言った。

「昔なら、更新なんて深夜にやった。現場止めるな」

私はため息をつき、机の引き出しから紙の束を出した。教員用の“緊急マニュアル”。紙があるのも平成エミュの癖だ。そこにホチキス留めされた、薄い色褪せたチケットの半券が挟まっている。

「まだ持ってたの?」

父の声が少し柔らかくなる。

半券は十年前、私が父を連れて行った小さなライブのものだ。今はもう存在しない会場名が、滲んだインクで印字されている。私は半券の裏に、当時父が油性ペンで書いたメモを見つけた。

『迷ったら、先に流せ。止めるな』

その言葉を見て、私はマニュアルの別ページにある「旧式アクセス手順」を思い出す。教材サーバが落ちた時のために、ローカルに残してある軽量版の手順書——それだけは、なぜかiモードサイトにミラーされている。

私はガラケーのテンキーで、慣れた指使いのままURLを打ち込んだ。画面に、絵文字みたいな簡素なアイコンと、青いリンク。

【群ロボ実習:夜間オフライン手順(軽量)】

「ほらな」と父が言う。「重いのは立派な方だ」

私は笑いそうになりながら、手順を読んで、実習棟の床下にある古い中継箱へ向かった。鍵は教員用のキーボックスにある。電子鍵のはずなのに、なぜか物理の合鍵も付いている。

中継箱を開けると、細い光ファイバの束が、まるで血管みたいに並んでいる。そこに「実習用ローカル網」と書かれたラベルがあった。私は手順通り、ローカル網に端末を直結する。

廊下の向こう、ガラス越しに見える体育館では、学生たちがメタバース広場にログインしている最中だった。実習の前に“広場で集合”が決まりらしい。AR越しに見える自分たちのアバターは、なぜか皆、2000年代の制服っぽいデザインで、足元だけ最新のスニーカー。

「先生、入れません!」

教室から声が飛ぶ。

「認証が回りません!」

私は戻りながら答える。

「広場は後でいい。先にロボ、動かすぞ」

実習室の床には、物流用群ロボットが整列していた。丸い車輪の付いた箱が、数十台。待機中のLEDが呼吸みたいに点滅している。

私はローカル網から配布できる“緊急ルート”を選び、送信ボタンを押した。ロボットたちのLEDが一斉に色を変え、静かなモーター音が、波のように広がった。

整列が崩れ、隊列が生まれる。互いの距離を測り、譲り合い、最短で出口へ。

学生たちが息をのむ。

「うわ、動いた……」

「先生、メタバース広場じゃなくてもいけるんだ」

私は頷きかけて、端末に届いた通知に気づく。

【差分断片受信:教育ブロック/認証混雑緩和案】
【審査状況:保留】

誰かが、今の詰まりを直す提案を投げたのだろう。保留のまま、回らない認証。どこかの内閣ユニットがレビューしているはずなのに、結果は来ない。

父が小さく舌打ちする。

「上が遅いときは、現場が先に回す。お前、そう教えられただろ」

私は机の上の半券を、そっと裏返した。あのメモが見えないように。

「うん。だから今日は、これでいい」

ロボットの隊列が教室の端を通り過ぎるとき、学生の一人が、ポケットからくしゃくしゃの紙を取り出して笑った。

「先生、これ……半券みたいに、いつか紙のIDとかも授業で使うんすかね」

私はその紙を見て、なぜか胸が軽くなる。

「使うかもな。紙は、更新待ちしないから」

その瞬間、体育館の方から歓声が上がった。メタバース広場の認証が、やっと通ったらしい。

でも実習室では、もうロボットが動いている。

私はガラケーの小さな画面を閉じ、半券をマニュアルに戻した。平成の不便さが、今夜だけは、学生たちの手を止めずに済ませてくれた気がした。