感熱紙の輪郭、プログラムの母

──平成0x29A年 日時不明

 指先が、感熱紙の乾いた感触を拾う。駐輪場の管理人が無言で差し出してきた黄色の紙札を、自転車のハンドルに巻きつける。糊付けなんてハイテクなものは使わない。細長く切られた紙の端をスリットに差し込むだけのアナログな儀式。これがないと、ロボ清掃員に「放置車両」として分子分解される恐れがある。この時代、古いものほど扱いに慎重さが求められる。

「おはよう、凪。今日のバイタルは安定しています。業務開始まで余裕があります」

 鼓膜に響くのは、母さんの声ではない。平坦で、抑揚を注意深く削ぎ落とした合成音声。代理エージェントの『システム04』だ。母さんの人格データは、三日前から法定倫理検査に入っている。生前の記憶にドクトリンへの反逆的バイアスが混じっていないか、アルゴリズムの洗浄機にかけられている最中だ。

「……そうか。ありがとう、システム04」

 私は短く答え、職場の『ヨドバシ・エミュレーション』の自動ドアをくぐった。店内には、16ビットの電子音が賑やかに響いている。売り場の中心には、プラスチック特有の安っぽいグレーをまとった「スーパーファミコン」が山積みにされていた。もちろん中身は最新の量子プロセッサだが、ガワはあくまでも平成初期の質感をエミュレートしている。客たちはカセットをフーフーと吹く仕草をしてから、本体に差し込む。それが「作法」だと、ドクトリンが定義しているからだ。

 昼食時を過ぎた頃、視界の隅に赤い通知が点滅した。第0x88A2内閣ユニットからの、並行閣議決定リクエストだ。

「凪、ブロックチェーン投票の署名要請です。議題は『特定商業区域におけるプラスチック製レジ袋の有償化継続の是非』。現在の党ドクトリンとの差分は0.002%。承認を推奨します」

 代理エージェントの冷淡な声に従い、私は網膜決済で暗号署名を行う。私の五分間の「総理大臣」としての執務は、これで終わりだ。画面の向こうで数十万の「私」が同じように署名し、アルゴリズムが最適解を導き出す。世界はこうして、誰の意志でもなく、かつ全員の合意によって回っている。

 ふと、売り場の隅でロボ清掃員が動かなくなっているのに気づいた。旧式の円盤型を模した機体が、子供が落としたMD(ミニディスク)を飲み込もうとして、エラーを吐いている。私はそれを拾い上げ、埃を払った。ディスクには手書きで「My Best 1998」と書かれている。遺伝子ネットワークのどこかに、この筆跡を懐かしむ螺旋が刻まれているのだろうか。

 日が傾き、店内の照明がオレンジ色に変わる。退勤の時間だ。駐輪場に戻り、ハンドルの紙札を引きちぎる。指先に残る紙の感触が、なぜか胸を締め付けた。

「システム04、母さんの検査はいつ終わる?」
「進捗は88%です。ただし、一部の記憶領域に『平成への過度な執着』が見られ、削除対象となる可能性があります」

 削除。そうか、母さんの思い出も、アルゴリズムによって最適化されるのか。

 空を見上げると、月がぼんやりと浮いていた。この空も、空気の匂いも、目の前の錆びた自転車も、すべては崩壊しかけたドクトリンが維持している「平成」という夢だ。母さんが母さんでなくなっても、この紙札の感触だけは、明日も同じようにここにある。それが救いなのか、それとも終わりなき刑罰なのか、今の私にはわからなかった。