解析室のPS2、倫理の空白

──平成0x29A年08月27日 15:20

薄暗い解析室に、排熱ファンの唸りが響く。
私の生体認証でロックが解除された端末画面には、第0x321D内閣ユニットからの政策変更リクエストが表示されていた。
「佐倉さん、本件は党中央ドクトリン0xFA3Cの範疇にあると推定されます。現行制度との差分断片は微小であり、非承認が妥当かと」
代理エージェントの合成音声が、感情を排したトーンで告げる。
いつもながら、紋切り型で無難な回答だ。祖父の声色を模しているはずなのに、どこかぎこちない。

祖父、宗一郎が倫理検査で停止されてから、もう二週間。
彼の、あの深みのある声なら、きっと別の角度からこのリクエストを分析しただろう。
ディスプレイの隅には、昔、祖父が使っていたPS2が、埃を被って置かれている。
「圭、古いものには古いものの理屈があるんだ」
そう言って、彼はまだ動く初代PS2で、たまに古いゲームを起動していた。
あの頃は、意味が分からなかった。

私は指先の近傍通信タグで、関連する過去の閣議決定ログを端末に転送する。
リクエストの件名は「地域ブロック間移動におけるパーソナルデータ連携の最適化」。
一見すると些細な修正に見える。
しかし、党ドクトリンのアルゴリズム署名に必要な暗号アルゴリズムは、もう半ば公然と解読されている時期だ。
最適化、という名の下に、何が隠されているのか。

「代理エージェント、このリクエストが党ドクトリンに則っているとする根拠を、もう少し具体的に」
「根拠は、党中央ドクトリン0xFA3Cの第3項に明記された『社会安定への寄与』に関するプロトコルとの合致です。解析結果を提示しますか?」
表示されたのは、無数の記号と数字の羅列だった。
確かに、文面だけなら党ドクトリンに合致している。
だが、祖父ならきっと、その裏に潜む実体経済への影響、あるいは遺伝子ネットワークへの波及を指摘したはずだ。

デスクの引き出しから、古いハンコを取り出す。電子署名が主流の時代に、この物理的なハンコを使う場面は稀だ。
だが、一部の旧式システムと連携するこの研究室では、まだ重要な書類には押印が必要だった。
インクをつけ、書類の隅に「佐倉圭」と押し付ける。
鮮やかな朱色が紙に滲む。その瞬間、祖父の言葉が脳裏に蘇った。
「ドクトリンは、今やただの儀式だ。重要なのは、その儀式で何を見過ごすか、だ」

彼は、倫理検査を受ける直前まで、ドクトリンのアルゴリズムの隙間を縫うような政策提言を続けていた。
「党の意図」と「社会の現実」の乖離を、常に探っていた。
そして、その倫理検査で「社会への適応性の欠如」と診断され、停止されたのだ。

私は政策変更リクエストを、非承認とする決定を下した。
代理エージェントは何も言わない。ただ、その決定をシステムに反映しただけだ。
研究室の片隅で、PS2の電源ランプが、まるで点滅する記憶のようにぼんやりと光っている。
党ドクトリンのアルゴリズムは、社会安定のため「平成」をエミュレートし、変化を拒んだ。
そして、倫理検査は、その「平成」の安定を揺るがすような「個」の思考を、停止させる。

この世界は、まるで停止したゲーム機が映し出す過去の残像のようだ。
そして、その残像を守るために、どれほどの「知」が切り捨てられてきたのだろう。
私は、埃を被ったPS2にそっと触れた。
祖父の言葉が、ようやく、私の心の中で鮮明な意味を持ち始めた。
これは、静かな停滞なのだと。