雨の窓口、量子と景品の狭間で
──平成0x29A年01月28日 12:40
俺の机の上には、誰かが置き忘れたビニール傘が一本、乾ききらないまま立てかけてある。窓口業務が始まって三時間、昼休みまであと二十分。第6行政ブロック市民課の窓は薄曇りで、外の景色はぼんやりしている。
「すみません、バイオメトリック改札が通れなくて」
声をかけてきたのは、五十代くらいの男性だった。手には通勤定期カードと、なぜかインスタントラーメンの景品らしきキーホルダーがぶら下がっている。平成エミュの混線を象徴するような組み合わせだ。
「改札のエラーコードは表示されましたか?」
俺が尋ねると、男性は首を振った。
「ただ『認証できません』って。もう三日連続で手動ゲート通ってるんです。遅刻しそうで」
端末を起動し、男性の市民番号を入力する。画面には生体認証履歴が並ぶ。確かに三日間、すべて手動ゲート通過の記録だ。バイオメトリック改札は通常、虹彩と指紋の二要素で認証するが、男性のデータには微細なノイズが混入している。
『健太、量子署名のタイムスタンプを見て』
耳の奥で、母さんの声が響く。高橋和子。享年五十四。俺が中学生のときに脳腫瘍で亡くなった。生前は市役所の戸籍課にいて、こういう細かい手続きが得意だった。今は俺のエージェントとして、日々の業務を支えてくれている。
言われた通り、量子署名の欄を確認する。
「……あ」
タイムスタンプが、0.3秒ずつずれている。市民の生体情報は遺伝子ネットワークと連動しており、その更新履歴には量子署名が付与される。だがこの男性の署名は、三日前から微妙に非同期を起こしていた。
「システム側の問題ですね。遺伝子ネットワークの同期が遅延しています」
男性は困惑した表情を浮かべた。
「それ、俺のせいじゃないってことですか?」
「ええ。こちらで再同期のリクエストを出しますので、明日の朝には直っているはずです」
端末に再同期申請を打ち込む。ところが、承認ボタンを押した瞬間、画面が切り替わった。
『第0x3F8A2内閣ユニット 内閣総理大臣任命通知』
俺の心臓が跳ねる。五分間総理だ。ランダムで選ばれる、あの。
『健太、落ち着いて。閣議案件が来るわよ』
母さんの声が、いつもより少し緊張している。画面には差分申請が一件。「バイオメトリック改札の生体認証基準を0.5秒緩和する」という内容だ。党ドクトリンに基づく量子署名が必要で、承認すれば即座に全ブロックの改札に適用される。
俺は迷った。これを承認すれば、目の前の男性だけでなく、同じ問題を抱えている市民全員が救われる。だが、認証精度が下がれば不正通過のリスクも増す。
『健太、あなたが決めなさい』
母さんの声は、優しかった。
俺は承認ボタンを押した。量子署名が生成され、差分が承認される。五分間が終わる前に、もう一件、別の案件が流れてきたが、それは非承認を選んだ。
「……お待たせしました」
男性に向き直ると、彼はまだキーホルダーを握りしめていた。
「明日、通れますかね?」
「通れます」
俺はそう答えた。確信はないけれど、嘘じゃない気がした。
男性が窓口を離れ、次の市民が近づいてくる。ビニール傘は、まだ乾いていない。
『健太、今日は早く帰りなさい。疲れてるでしょ』
母さんの声に、俺は小さく頷いた。
昼休みまで、あと五分。