薄明のスクランブル、美肌モードの避難所
──平成0x29A年02月07日 04:20
午前四時二十分。メタバース「シブヤ・エミュ」の空は、いつまでも明け切らない青紫色のグラデーションで固定されている。空中に浮遊する巨大な「時間貸しCPU・残数わずか」の広告が、バグった蛍光灯のようにチカチカと瞬いていた。
「レン、またやってるよ。あそこのスクランブル交差点」
耳元で、幼馴染の祥の声がした。祥は十年前、eスポーツの全国大会決勝中に心不全で死んだ。今は私のエージェントとして、視界の隅にノイズ混じりのホログラムで居座っている。
「……見えた。遺伝子ネットワークの同期ズレだな」
私が視線を向けた先、百九(マルキュー)ビルへと続く横断歩道の真ん中で、一人のアバターが激しく明滅していた。その輪郭はガビガビに崩れ、平成初期の低解像度ビデオのように尾を引いている。この街の住人は、国民全員に薄く配分された「皇室遺伝子」のネットワークを認証キーにしているが、稀にその伝播が減衰し、個体の存在確率が揺らぐことがある。
『……続きまして、ペンネーム“匿名希望の匿名”さんからのリクエスト。懐かしのナンバーで……』
街角の街頭スピーカーからは、数十年前からループし続けている深夜ラジオのアーカイブが流れている。私は腰のホルスターから、古いガラケーの形状をした治安維持端末を抜き取った。本来なら働かなくても生きていける世の中だが、私はこの「バグ取り」という平成的労働に、奇妙な愛着を感じている。
その時、視界が真っ赤に染まった。
【緊急:第0x39F22内閣ユニット・内閣総理大臣に選任されました。任期:300秒】
「うわっ、最悪のタイミング。レン、五分間だけ総理だってさ」
祥が呆れたように笑う。目の前に、党ドクトリンに基づく暗号化された意思決定インターフェースが展開された。リクエストは一つ。先ほどのアバター――遺伝子整合性エラー個体『ID:PX-09』の、社会基盤からの強制パージ(消去)承認だ。
党のアルゴリズムは冷酷だ。不安定な個体は社会のノイズであり、即座に削除されるべき「差分」と見なされる。承認ボタンには、既に私のデジタル署名がスタンバイされていた。
「消すのか? レン。あいつ、泣いてるみたいだぞ」
祥の言う通り、崩れゆくアバターは、顔のない頭部を抱えてうずくまっていた。私はアルゴリズムの隙間を探した。党ドクトリンは「最適化」を求めているが、その定義は意外とガバガバだ。私は承認ボタンをスルーし、管理権限を利用して周囲の物理演算を書き換えた。
「祥、あそこのゲームセンターの廃墟、まだ生きてるか?」
「あぁ、時間貸しCPUの供給からは外れてるけど、ローカルで動いてるよ」
私はエラー個体を強引に掴み、路地裏の奥、埃を被った『プリクラ機』の中へと放り込んだ。平成末期に大流行した、目を異常に大きく加工する古い筐体だ。
「何してるんだよ?」
「ここは隔離領域だ。物理演算が独立してるから、ネットワークの同期が外れても消えない。ついでに『美肌モード』で輪郭を補完させれば、存在確率の揺らぎもごまかせる」
私は五分間の任期が切れる直前、リクエストを『隔離保存による経過観察』へと書き換え、署名した。党のアルゴリズムは、消去も隔離も「安定」という目的においては同価値だと判断し、署名を受理した。
任期終了の通知とともに、視界の赤色が引いていく。プリクラ機のカーテンの隙間から、加工されすぎて不自然なほどキラキラした瞳で外を覗くアバターが見えた。少なくとも、次のシステムメンテナンスまではあそこで生き延びられるだろう。
「……お節介だね、相変わらず」
祥が笑い、深夜ラジオからは懐かしいJ-POPのイントロが流れ始めた。私は重くなったCPUの負荷を感じながら、少しだけ軽くなった足取りで、明け切らないシブヤの街を歩き出した。